人を醜くさせる孤独と、人を美しくさせる孤独。
昨日は春休みを迎えた子供達が、福岡の祖父母の家に旅立っていきました。
羽田空港にて職員のお姉さんに「お子様だけでご出発のお客様ですか?」と尋ねられ、息子は「はい、気ままなぶらり旅です」と答えました。
夜には、仕事が大好きな友人と久々に会ってご飯を食べました。仕事終わりに飲みに行って、最近の仕事のここがこうだとかああだとか指摘し合う時間ってきっと大事だなことなんだろうと思うのですが、兼業主婦だとそこはなかなかままならないので、こういうタイミングで、違う業種の人とそれぞれの仕事の話しが出来るというのはなかなか良い時間でした。
またこうやって夜の時間を有意義に過ごすことできっと、子供達が不在の時間も滅入ることなく過ごしていけるはず!……そう思っていましたが、まさかまさかの落とし穴。朝が静かすぎる。毎朝息子に叩き起こされていると、たまには時間を気にせず寝かせてくれよと思いますが、今日は叩き起こされもしないのに、しっかり7時には目が覚めてしまいました。ベッドを出て無音のリビングに移動しても全く1日の始まりを感じない。寂しさまぎれにiphoneでSNSを渡り歩いてみてもつい3分ほどまえに見たばかりなので特に新しい動きもなく。自分が今までいかに「良い孤独」と対峙してこなかったかというのを否応なしに痛感させられますね。
なんとなく、なんとなくですがわたしは、人を醜くさせる孤独と、人を美しくさせる孤独というものがあるのではないかとおもいます。前者は小さな箱の中での連帯感に依存することにより生じるもの。一方で後者は、もっともっと大きな世界の中で、自分の小ささを実感することにより生じるもの。でも、意識したことでふわっと自分が解放されたような、楽な気持ちにさせてくれるものです。
日常では半径5メートル以内の世界で起きるあれこれに忙殺され、世界の大きさと自分の小ささに思いを馳せる、なんて優雅な時間はなかなか得られないので、この機会にちょっと真正面から向き合ってみようかなという風におもっています。