年齢ってなんだろう。不自由な子どもから、自由な大人に生まれ直す時
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化粧品ブランドSK-IIが、10代〜50代の女性1400人に行った「女性の生き方に関する意識調査」によれば、回答した20代女性の7割以上が、30代を迎えることに漠然とした不安を感じると答えたそうだ。単に年齢を重ねること、未知なる世界への恐怖かというと、そうでもなさそう。というのもこの調査によれば、40代、50代という、30歳を過去に通り過ぎた女性たちの多くもまた、20代女性と同様に、各年代の節目の中で、30代を迎えることに最も不安を感じた、と答えているのだ。
20代を終えて、30を迎えるまでの女性には何かしらの重圧があり、さらにそれは、もっと年齢を重ねる中で次第に影を潜めていくものでもあるようだ。
また、同ブランドが制作した動画「期限なんてない」では、この結果がより象徴的に描かれている。生まれたときから無条件に30歳までのカウントダウンを余儀なくされてきた女性達が、完璧でなければ30歳になれないの?といった不安や焦燥にかられながらも、ついに30歳を迎え「強い気持ちを持つことで運命は変えられるはず」と奮起。その瞬間に、年齢という縛りから解放されるというストーリーだ。
私が30歳になった頃のことを思い出してみると、初めて家庭の外に出て仕事をして、それから少し経って離婚をして、結構いろいろなことがあった。
高校を卒業してすぐに結婚し、子供を産み、専業主婦になった私は、一度も働いたことがないことをずっと負い目に感じていた。10年以上前のあるとき、そのことを、当時仲良くしてくれていたミキちゃんという年上のお姉さんに打ち明けると、彼女は笑いながらこんな風に言った。
「きっと大丈夫だよ。本当に必要になったら自然とそうできるときが来るから」
それだけならきっと、ただの気休め程度に受け取って、これほど長く記憶に留めておくこともなかっただろう。けれどミキちゃんはこのあとに、一人のイギリス人女性の半生について話してくれた。勤めていた会社を辞めて、一時ロンドンで暮らしていたミキちゃん。現地では、小さな食堂のウェイトレスとして働いていた。その食堂には、アイリーンという名物おかみがいて、お客の多くは食事とともに、アイリーンとのおしゃべりをお目当てにやってくる。……というと、ついにこやかで朗らかな、たとえば映画「タンポポ」に出てくる宮本信子みたいな女性をイメージしそうなところだけど、ミキちゃんの語るアイリーンはその実もっと強くて、もっと笑わない、おまけにちょっと意地悪なところもあるハガネの女。ロンドン滞在中のミキちゃんは、よく理不尽なことで叱られては、腹を立てたり、泣かされたりしていたそうだ。けれど、そんなアイリーンにも、当然のことながら世間を知らなかった若かりし時代があったわけで。恋をして、結婚をして、一時は主婦として家庭に入っていたものの、旦那さんに先立たれ、ろくに働いた経験もないまま、突如自分で稼いで生きていかなければならなくなった。そんな事情からオープンさせたのが、ミキちゃんの辿り着いた、あの食堂だったのだという。
“だから大丈夫。生きていくために必要となれば、いつだって、何だってできるんだと思う”と、そんな風にミキちゃんは言ったのだ。
今思えば私は、このときになんとなく覚悟を決めたような気もする。今、この話を聞いたことにはおそらく意味があるのだろう。遅かれ早かれそのときがきて、私もまた似たようなことを経験するのだろうと、心のどこかでたしかに思った。そのときというのはもちろん、それまで享受していた幸せな結婚生活が何らかの形で終わるときで、当然まるっきり素直に受け入れることはできなかったものの、かといってこの話をすっかり忘れてしまうこともできなかった。
漠然とした予兆があったのか、もしくはイメージが結果を引き寄せてしまったのか、それから約10年後、ちょうど30歳を迎える頃に、やっぱりそれは現実になり、アイリーンと同じように私も、自分で働いて、自分で稼いで、そして誰の妻でもない者として生きていかなくてはならなくなったのだ。
完全に不本意だったものの、少しの悪あがきののち、もはやどうしようもないと腹をくくった。で、それまでなら“痛々しい”と思われそうでやれなかったこと、やらなきゃと思いつつ臆病で手が出なかったことを、とにかくどんどんやってみた。そうすることで気も紛れたし、何よりやらないと生きていけない、死活問題だったのだ。ところが、そういう理由でなりふり構わなくなってからというのは、思いのほかサイコーだった。下手な鉄砲だって数打てば当たるんだな、というような、しっかりとした手応えを毎日のように感じられる。途方もなく難しいと思っていたことが案外そうでもないと気づくのはこの上ない快感で、むしろ、どう考えても破綻しているのに、どう考えても続かないのに、それでもなんとか同じ現状を維持したいと、無理やり体裁を繕っているときの方がよほど苦しく、よほど生きづらかった。
結婚生活は続けられなかったけど、仕事は得た。誰かの役に立っている実感を得る機会に恵まれた。頑張ってもうまくいかないこともあれば、急にトントン拍子でうまくいくこともある。そうか、世の中とはそんな風にできているのだなあと、思わされたものだった。
冒頭で紹介したアンケート結果のように、30歳を境にその前後で、私たち女性の眺める景色は何かしら大きく変化するらしい。思うにそうなる理由のひとつは、多くの女性が30歳頃に漠然と、恋愛や結婚、出産やキャリア形成など、理想の自分が実現できたのか、できなかったのか、その暫定的な答えを出すからなのかもしれない。動画のように、本当は大抵のことに期限なんてなくて、道半ばの答え合わせなんて必要ないんだけど、でも一方で、自分で適当なところに節目をもうけて、一旦その時点の結果を受け入れるって、実はそんなに悪いことじゃないようにも思う。
何しろ20代の頃というのは、とにかく自分の力だけで何だってできるはずだと思っていた。できないのはすべて自分が悪い、まわりの状況のせいにするのは甘え、努力が足りない、と。だけど、実はそんな考え方こそ傲慢で、お子さまだったなと今は思う。努力しただけすべて報われるなら、死ぬほどトレーニングを積んだスポーツ選手はオリンピックで全員金メダルを取るべきだけど、現実にはそうもいかない。毎日、根気強くトライアンドエラーを積み重ねても、あとは運を天に任せて待つしかない、そういうことが世の中にはたくさんある。
うまくいくこともあれば、うまくいかないこともある。死ぬまで延々と自分として生きていかなきゃいけないから、できる自分も、できない自分も、いつかは受け入れなければならない。特にできない自分を受け入れるというのは、悔しかったり、悲しかったりするけれど、まあできないことだってあるよな、できない自分だっているよな、タイミングだなと、そんな風に自分をそのまま受け止められるようになったら、きっとその瞬間にこそ見えている世界が一変する。自分が自分にかけていた過剰な期待を脱いで、ぐっと身軽になることができる。自分を許せるようになる。
自分の力だけで何でもできると思っているかぎり、迫りくる時間は敵でしかないけれど、一度、自分がいかに非力かを知ると、時間はときにどうしようもない自分の背中をぐっと押して、いやがおうにも一歩を踏みださせる、強い味方になってくれもする。またそのもっと先に、“最終的にはなるようにしかならない”と考える回路を作るのだって、決して逃げや諦めじゃない。むしろ、年齢と経験を積み重ねることでこそ勝ち得た、自分への信頼の証だ。
自分なのか社会なのか、誰が作ったかもわからない30歳というボーダーラインを前に不安や焦りを抱く、答え合わせをしようとするのは、そこから先、本当に自由な大人になるために有効な通過儀礼だ。子供から大人に生まれ直す、生まれの苦しみを通り抜けた先には、どうせ大したことなんてできないからこそ何だって好きにやれる、伸びやかで、清々しい世界が広がっている。
はてなブログでは、SK-IIの提供で特別お題キャンペーンを実施しています。キャンペーンの一環として、多方面で活躍するはてなブロガーに「『選択』と『年齢』」について記していただきました。
マスク依存と鼻を隠したい現象
少し前のNHKの特集で「マスク依存」について取り上げていた。 最初は病気やアレルギーの予防で何気なくマスクをつけ始めたのに、気づけばいつしか、マスクなしには人前に出られなくなってしまった、という人が増えているらしい。これを見て思い出したことがあった。
1年ほど前から、たまにリサーチのためにツイキャスを観ていた。(ツイキャスというのはスマホから動画のライブ配信ができる、10代〜20代の子供達に人気のサービスだ。)その中であるとき、とあるキャス主(配信者)の女の子が、マスクをして配信をしていた。それだけなら、顔を出したくないんだな、と納得のいく話なのだが、放送の途中で彼女は、おもむろにストローを挿した缶ジュースを口元に。マスクをしているのにどうやって飲むんだろうと見守っていると、彼女は顔につけたままのマスクを手際よく半分に折りまげ、マスクを取ることなく、口元だけを露出させてジュースを飲んだのだ。二分の一幅となったマスクは引き続き、彼女の鼻だけを覆っているという状態。
……そんなおかしなことってある?!と思ったものの、他の視聴者は全然そこに突っ込まない。人気キャス主というのは一部でカリスマ化していて、ネイルやメイクの仕方をレクチャーしたり、視聴者のコメントを読み上げるだけで喜ばれたりするのだが、鼻にだけマスクをかけた不思議な状態となった彼女は、その状態でも何事もないかのように視聴者から受け入れられ、賞賛のコメントを読み上げ続けている。
鼻に絆創膏を貼るだけでも面白い感じになるのに、マスクを鼻だけにかけるというのは普通ではちょっと考えられないくらい奇妙だ。それを押してまでマスクを外せない状態というのは、確かに「依存症」と呼ぶに値するもののように感じられるし、同時にそこに違和感を持たない視聴者の方にも色々な疑問が湧く。
話は変わって数日前、インスタグラムで不思議な写真を見かけた。おしゃれな料理の写真をポストする、とある人気アカウント。その中の人が、珍しく部分的に顔出し写真をアップされていたのだが、その写真が何か妙だったのだ。あれ?と思いよく見てみると、ご本人の鼻の部分にだけ、小さくぼかしが入れられている。おそらく、ペイントアプリのぼかしペンを使って、手作業で入れられたぼかしだろう。
どうしてそんなにも律儀に鼻だけ隠すのか、と思うと同時に、その気持ちが全然わからないでもない。自撮り写真だって鼻から下を隠した方が確かに盛れる。その実感はある。ざっくり鼻から下、と思っていたから試していないだけで、問題は鼻にだけあったのかもしれない。ツイキャスやインスタグラムで動画や写真を研究し尽くした結果、彼女達はそんな鼻の事実に気づいたのではないだろうか。そしてマスク依存を患っているとされる人の中には、もしかしたら少なからず、醜鼻恐怖の人がいるのではないか。
2ちゃんねるの美容整形板で(昔よく読んでいた)、“鼻の整形を始めると整形依存に陥りやすい”という投稿を目にした記憶がある。鼻というのは、顔の真ん中にあまりにも堂々とあるくせに、まつ毛のような毛が生えているわけでもなく、まばたきをするなどといった動きもない。つまり、誤魔化しが効きにくい。鼻にメスを入れると整形依存になりやすい、というのも、もとの形がシンプルであるがゆえに、少しのラインのずれが目立ちやすく、気になりやすいということがあるんだろう。目の錯覚を利用したメイクとして、少し鼻筋の両脇に陰影を入れて、鼻をシャープに見せたりすることもできるにはできるが、やりすぎると舞台メイクのようになるので、これはかなり高度な技術を必要とする。
一方、鼻の上にある目の方には、昔から、大きければ大きいほど良いという単純明解な評価基準があった。まつ毛にはマスカラ、目の縁取りにアイライン、さらには黒目補強にカラコンというように、持って生まれたものをベースに、一時的にさらによくする余地がある。
日進月歩の道具の力を借りて、どんどん少女漫画の絵ように華やいでいく目元とは裏腹に、外科的な力を借りなければ一向に人間味を失えない我々の鼻。そして、外科的な力を借りたところで、真の正解が測りにくい、鼻。少女漫画の絵で、可愛い子の鼻というのは往々にしてカタカナの「ノ」かもしくは、ないに等しいくらい小さな「く」として描かれている。しかし現実の人間の鼻というのは「ノ」や「く」よりは、はるかに主張が強い。そこはやはり「鼻」といった佇まいだ。少女漫画で可愛くない子として描かれる鼻はだいたい大きく、いかにも「鼻」といった佇まいをしている。
これらのことに加えて、ちょっと下世話な人ならご存知かと思うが“鼻が大きい男性は性器が大きい”という説がある。これは男性の話だが、たとえばエッチなことを考えて鼻息が荒くなったり、鼻の穴が膨らんだり、鼻から血が出たりする、というようなことは女性に起こってもおかしくないし、漫画やドラマでも、女性にそういう描写がなされることは当たり前にある。つまり、人間味を失わせてくれない鼻というのは、同時に性器や性欲といった、性にまつわるあれこれを連想させるものでもあって、だからこそ人間味を感じさせるんだろうし、だからこそ恥ずかしいし、だからこそ隠したいと、余計に思わせるんだろうと思う。もしかしたら、造形の如何は関係ないのかもしれない。
だけど、当然ながら、そうやって人間である事実を否定する形で美を追求していくことには限界がありそうだ。だって仮にもし化粧や努力や外科的な力によって、どんなに造形を美しく、非人間的に整えていっても、最後の最後には、人間なのに整いすぎた状態への違和感こそが、人間である証として残ってしまいそうだからだ。だから、やっぱり人間である以上いずれかの段階で、自分が、立派な鼻と、立派な欲を持った人間であるということを受け入れなければいけないんだろうと思うけど、ところが今の時代、強い欲求と大きい鼻を持ったギラギラとした人間像は、男女ともにあまり好まれないから、決して少なくない人がマスクで鼻を隠し、まさか私は欲など持たないですよ、という風を装いたいのかもしれないと思う。
ところでこれは先日焼いたソーセージパイ。冷凍パイシートの内側にマスタードを塗って、巻いて焼く。あっという間に朝ごはんができます。
1を言って10伝えるWebと、100以上言って1を伝える本のこと、そして今年の仕事のこと。
30歳の誕生日に、何となく節目だし最初で最後だろうと、友達をたくさん招いて自分の誕生日会を開いたんですが、思えばこのとき、30代の目標として「本を書く」と言った記憶があります。当時はまだ文章を書いてお金をもらったこともなかったし、ブログすらバズってなかったので、今となっては良くあんなこと言ったなという感じですが、34歳になった今年、気がつけば2冊の本が世に出ました。
振り返ってみると今年の上半期は、その2冊の本の最後の仕上げに追われており、延々と文章を直していました。
下半期は、そうやって出た本をたくさんの人に知ってもらうべく、取材を受けたり、トークイベントをやらせてもらったりしました。
この前半と後半の環境の変化に、当初はかなり消耗しました。
これまでにもごくまれにウケ狙いのライトニングトークなどを人前で披露することがあり、これはもともと好きだったんです。起承転結の構成を練って、その中の狙ったところで素直に観客が笑ってくれると、文筆ではどうしたって得られない、発信者と受信者とのリアルタイムのコールアンドレスポンスに気分が高揚し、私こういうの向いてるな、とすら思っていたんですが、本に関連する取材やトークイベントで私のやるべきことは、ウケ狙いでなく実りある話をお持ち帰りいただくことだったんです。これがなかなか難しかった。夫婦円満の秘訣とか、旦那に浮気されない方法とかを質問していただくこともありましたが、そんなものが分かれば『家族無計画』などという本は世に出ているはずがないのであります。でも、質問してくださる記者の方の気持ちもわかります。世にこれだけ情報が氾濫している中で、貴重な読者の時間を使って、私のインタビューを読んでもらわなければならないのです。スパーンと明快な答えを提示してあげたい。でも嘘は言いたくないし……最大公約数の答えを探し続ける一方で、仕事を抜きにした私の個人的な関心は、今年の後半からちょっと別の方向に移っていきました。
私はこれまで主にWebで、1500〜3000字くらいのエッセイを多く書いてきました。Webに最適な文章というのは、表現がシンプルで、スピード感があって、1言って10伝えるような文章。私の書いた2冊の本は、2冊とも短編の集合体なのでそれぞれの文章はWebとあまり変わらない作りになっていますが、一通り制作に携わったあとで感じたことは、本というのは本来、それとは全然違う伝え方ができるものだったんだなということでした。
本というのは、100とか1000とか10000を言って、1を伝えられる媒体なのです。
私はもともと、全然読まない人よりはそこそこ本を読みますが、本の制作に携わるプロたちに比べると圧倒的に読書量が少なく、また作り手の目線で読むということも全くしてこなかったので、作り終わってから初めてそのことをリアルに感じ、途端にそこはかとない魅力を感じました。多くを言って1を伝えるというアプローチは伝える方にも受け取る方にもそれなりに基礎体力を必要とし、あらゆるサービスが個人の可処分時間を奪い合っているこの時代に、必ずしも最適なやり方とは言えないかもしれません。それでも、私が本を出した後に出会った、たくさんの本を読む人たちは、やっぱり、1冊の本から、1つの大きな真実を受け止めたいと、そのことを望んでいて、私もまた彼らから、そういう読書の魅力を教わりました。
少し話はそれますが、Webのエッセイをより広く読まれるものにするためには、どうしても自己啓発的な結論が必要です。1を言って10伝えるためには、すぐに効きそうな、強い薬が必要なんです。でも、上でも書いた通り、夫婦円満の秘訣、とか、旦那に浮気されない方法、とか、無限にある個々のケースが前提となる問題に対して、強く効く薬って当然ながらなくて、こういったケースではこういうのが効きますよ、多くの人にとっては嘘です。短い文字数で、シンプルな脈絡の中で語られる真実は、やっぱり残念ながら大きな穴がたくさん空いているのです。
そんな中でも、できる限り誠実でいたいと、私自身はあくまでも自分や、友人の体験をベースにした話を展開するようにしてきました。それはそれでやりがいのある取り組みですが、一方で、もっと嘘にならない、もっと盤石な真実を書きたい、と欲深いことを、最近は思うようになりました。
そのためには私自身の未熟な思考力をタフに鍛えなおす必要があり、また言うまでもなく技術も磨いていかなくてはなりません。来年以降、30代後半戦は、ひとつそういうことをやっていきたいなというふうに感じています。
道のりは長い。奇跡的に30歳の決意「本を書く」が実現できたと思ったらまた、ずっと遠くに高い山。しかしそうやって誰に頼まれたわけでもなく取り組まざるを得ないものがある、そんな愚かさこそが、きっと人生を豊かにしてくれる。(みたいな一言があるのがWeb的な文章です)
最後に、今年やった仕事をダイジェストで並べます。
<1月>
Project Dressで連載が始まりました。
雑誌『リンネル』で取材していただき、奇跡の写真を撮ってもらいました。
<2月>
SOLOの連載続いてます。しばらくお休みしてしまいましたがまた来年から頑張ります。
Project Dress”女を磨く離婚道”という力強いタイトルの特集に寄稿しました。
<3月>
HRナビで株式会社バーグハンバーグバーグのシモダくんのインタビューをしました。あまりに原稿を長く抱えすぎたせいかHRナビさんから次の仕事がきませんが次は早く仕上げますので何卒よろしくお願いいたします。>HRナビ編集部御中
30代の恋愛について、最も信頼するWeb編集者、金井さん率いるAMに寄稿しました。
<4月〜5月>
ウーマンエキサイトでWEラブ赤ちゃんプロジェクトが始まりました。公共の場で泣き止まない赤ちゃんを抱えるお母さんに、「大丈夫ですよ」と伝えるステッカーを作りませんか?という提案を、ウーマンエキサイト編集部が快く受けてくださったものです。
ケコーンという結婚についてのサイトに寄稿しました。この記事は個人的にもなかなか満足度の高い仕上がりでした。(はてな同士なはずなのになぜかリンクがおかしい。。)
【紫原明子寄稿文】「だって幸せそうって思われたい」人たちが本当に幸せになるには - Kekoon(ケコーン) - 結婚・結婚式・恋愛に関するサムシング情報をお届け!
ファッションデザイナー鷺森アグリ氏の主宰する本のプロジェクト『abooks』に執筆で参加しました。全ページフランス折りの美しい本です、買ってください。
人生に効く本について、ウートピに寄稿しました。(紹介した本が絶版本。)
<6月>
ついに1作目の本が発売となりました。
本についてBuzzFeedにて記事にしていただきました。今年は本当にBFの記事をたくさん読みました。
<7月>
3ヶ月限定でオンラインサロンもやりました。濃密でした。
ブログ以外で一番最初に寄稿した媒体、ハフィントンポストに取材していただきました。
『小説すばる』に短いエッセイを寄稿しました。
「灯台もと暮らし」さんには働く母として取材していただきました。もとくらのようなメディアが来年以降より人気になりそう。(含願望)
週プレさんにもインタビューしていただきました。水着になれない体で申し訳なかった。
都知事選についてポリタスに寄稿しました。ポリタスへの寄稿が本当に最も大変なので、この記事では望月優大(id:hirokim21)先生に相談に乗っていただきました。
私は都知事になりたくない(紫原明子)|ポリタス 参院選・都知事選 2016――何のために投票するのか
<8月>
フリーランス化ということでGooGirlさんに取材していただきました。
そして2冊目の本『りこんのこども』が発売となりました。
はたらく女性の深呼吸マガジン「りっすん」に取材していただきました。メディア立ち上げに際してのインタビューで、大変光栄でした。
<9月>
日経デュアル編集長とお話しさせていただきました。(デュアルじゃない身で)
<10月>
校閲界の葉加瀬太郎「かもめブックス」柳下さんのインタビュー記事を書きました。
<11月>
ウートピにてライター小沢あやさんにインタビューしていただきました。
ご結婚されたタレント下田美咲ちゃんにインタビューしました。
Eatrip野村友里さんのラジオのコーナーにてお話しさせていただきました。
WONDER VISION : J-WAVE 81.3 FM RADIO
BizLadyにて仕事や結婚についてインタビューしていただきました。
ウーマンエキサイトで子育てにまつわる新しい連載が始まりました。なんと週1の更新です。
なんとデーブ・スペクター夫妻を取材しました。
<12月>
SOLOの「さみしさは敵か」という特集に寄稿しました。
何かと話題沸騰中のクロワッサンにて『りこんのこども』について取材していただきました。
そして今年は志茂田景樹さん、山崎ナオコーラさんをはじめとし、たくさんの先輩方とトークイベントでご一緒させていただきました。
<イベントレポート、イベントの記録>
紫原明子×柳下恭平が考える、現代女性と家族の在りかた『家族無計画』トークイベントVOL.1 | TOFUFU
セックスした相手を特別扱いしないことは「嫌われる」一因になる/紫原明子×枡野浩一【1】 - messy|メッシー
研究者の「結婚方程式」とクリエイターの「求愛表現」|求愛表現の研究――石川善樹×紫原明子×鷺森アグリ|鷺森アグリ/紫原明子/石川善樹|cakes(ケイクス)
山崎ナオコーラ×紫原明子、真逆なふたりが家族論・育児論を語る (1) 女にとらわれず、妻や母やから脱する生き方 | マイナビニュース
【ライター交流会】理想の職業!? 女性ライターの働き方 | Peatix
「規格外だけど、愉しい家族」 志茂田景樹 × 紫原明子 トークイベント | 青山ブックセンター
【恋愛・結婚・仕事・家族】アラサー・アラフォーのための人生100年時代の生き方【ゲスト紫原明子】 猫町倶楽部 -猫町倶楽部の読書会-
※お仕事の情報は随時FBページに記録していますのでよければご覧ください。
そんな感じで今年は本当にたくさんのお仕事をいただきました。
関係者のみなさま、読者のみなさま、誠にありがとうございました。
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。
これは先日焼いたクリスマスケーキ。
しないことを決めるとモテるという仮説
先日、猫町倶楽部(読書会コミュニティ)代表の山本多津也さんと運営メンバーの皆さん、それに『理不尽な進化』の著者、吉川浩満さんとで、私たちはこれから、どうやって長い人生を乗り切るべきかという話をした。
乗り切るというのは、何もお金や住む家など現実的な問題をどうやり過ごすかってことだけじゃない。へたしたら80とか90とか、ともすれば100歳くらいまで生きるかもしれないという可能性をふまえて、何をやって時間を潰すか、飽きてもうやめたと思わないようにするか、そういうことも含む。
例えば私の場合、39歳のときに長男が、43歳のときに長女が成人するので子育てはそこで一区切り。子供2人が成人したら本格的に私の3.0時代の幕が上がる予定なので、子供が一緒に歩くのを嫌がるような奇抜な格好をしたり、好きなだけ旅をしたり、「そっちにいっちゃだめ」と通常ならついブレーキをかけたくなる危険な相手との恋愛に走ったり、果ては行きずりの相手と性行為をしまくったりしようと思っているけれど、一方でそういうことにばかりうつつを抜かし、働かずに済むほどの潤沢な蓄えがあるわけでもないので、並行して仕事はしなければならない。しかし幸いにも仕事は好きだからこれも何とか精神的支柱になるだろう。破綻した生活と仕事、この2本柱で決まり、と思っていたら、博識な吉川さんがこんなことを教えてくださった。
「今後、人工知能があらゆる仕事を担うようになって、2045年にもなると、まともに仕事に就けるのは人口の1割程度になるという予測もあります」
これは大変だ。うかうか仕事だってできなくなるかもしれないのだ。
9割が働けない環境下では各々が働いて稼いで自分の生活を維持するという今の当たり前が通用しなくなってるわけだから、よくわからないけどベーシックインカムとか何かが導入されてたりして、働かなくても生活できるようになってるのではないかと思う。だから、仕事が嫌で嫌でたまらない人にとっては朗報かもしれない。
一方で、懸念もある。30歳になって初めて職に就いた私は、慣れない仕事で神経をすり減らし、日々ヘトヘトになりながらも「ああ、今、社会の経済活動に参加してるな」「社会に貢献してるな」とを感じて、それまで知らなかった充足感を味わった。もちろん、将来納税の義務を負う子供を産み育てることだって社会に貢献しているし、働いている家族を家事で支えることだって十分社会に貢献していることには違いない。そして現在専業主婦である人に対して社会に貢献してないなんて微塵も思わない。でも、自分が専業主婦だった当時、私自身はいつもどこか、働いていないことを後ろめたく感じていた。そして働いたことで、そのもやもやが晴れた。きっと私に限らず多くの人が、自分の貢献感の拠り所を仕事においているのではないかと思うから、人工知能が私たちの仕事を担ってくれるようになれば、貢献感満たせない難民で街が溢れかえるのではないだろうか。
そんな私の疑問に対し、吉川さんはうんうんと頷いた上で、 「だからね、僕はそうなったとき、ボランティアやNPOの活動が盛んになると思うんですよ」とおっしゃった。
この話の後で、私は一つ思い出したことがあった。 最近、私の周りでモテている女の子には一つ顕著な傾向があると感じていて、それは往々にして「しない女子」であることなのだ。
唐突に何を、と思われるだろうけれど、ちょっと辛抱して聞いてください。
「しない女子」というのは、料理をしない、ゴキブリ退治をしないなど、一つや二つ、日常生活においてかなり重要なことだけど、絶対に自分ではしないということを決めている女子のことで、私が今さっき勝手に命名した。体裁としては「できない」だけど、その裏には往々にして「しない」という強い意志が潜んでいる場合が多いから、しない女子、だ。
料理はどうしてもできない(だからしない)、という女の子のもとには料理ができる男の子がなぜか絶えずどこからともなく現れるし、ゴキブリを絶対自分では退治しないという女の子は、毎回あの手この手でゴキブリをどうにかしてくれる男の子を見つけてくる。私の無根拠な所感なので信じない方もそれでもちろん結構なのだが、生活の中で一つ二つ、どうしても他人の手を借りなければならないシーンを持っている女の子ほど、どうやら現在モテてるのだ。
そして、これは何も女の子に限った話ではなくて、逆の話は昔からあったからあえて言う必要を感じないだけでもある。生活能力の低い男の子、「もぉ、また散らかしてる」とか言われながら女性にあれこれやらせる男の子は、なんだかんだでモテてきたはずだ。現に世の中にはダメ男好きの女の子はたくさんいる。
先日、渋谷のスクランブル交差点のあたりに、「May I help you?」と書いたプラカードを掲げた人たち立っていた。外国人観光客向けに、困ったことがあればお手伝いしますよ、と待機している人たちのようだった。
思うに私たちは、あのプラカードの人たちのように、全然お金にならなくても、誰かを助けたり、誰かの役に立ったりしたい。誰かのヒーローになりたい。そうして、自分に生きている価値があることを確かめたいのだ。
きっと昔なら、風邪をひいて寝込んだ人には、誰かが飲み物や食べ物を届けなければならなかった。届けた人は、それによって貢献感を感じることができた。けれども今やいたるところにコンビニがあるし、Amazonプライムならへたすれば1時間以内にポカリでもゼリーでも冷えピタでも届けてくれる。終電を逃して帰れなくなった人を誰かが家に泊めなくても、漫画喫茶もカラオケもある。困った人の役に立つ機会を、サービスやシステムがどんどん奪っている。
そんな中にあって、多少自分の生活に不自由が生じたとしても、絶対にしないことを持っていて、他者の手を借りる余地を残している人は、少なくともその一点においては、それができる誰かを、ヒーローにすることができるのだ。
『家族無計画』の中でも紹介した「自立とは依存先を増やすこと」という、熊谷晋一郎さんの有名な言葉がある。私自身、特に離婚してから、色々なことが一人でできるようになった(4ドア冷蔵庫を一人で動かすとか)。折に触れて、できるようになったできなかったことを一つ一つ数え上げては、成長しなあ、と嬉しくなったりする。 けれどもこれから先、急激に変化していく社会を健やかに生きていく上で、もしかしたら、一人で全部できることは必ずしも必要じゃないのかもしれない。 他者に依存しなければ成立しない生活を、強い信念で、ストイックに維持すること。案外これが、自分のためにも、人のためにも、重要なことなのではないかと、思い始めている。
*
……で、このような話を11/23(祝)の猫町倶楽部読書会(@名古屋)で、させていただくこととなりました。
読書会の課題本は、ありがたいことに拙著『家族無計画』(Amazonで残り4ですので必要な方はお早めにお願いします)で、トークのテーマは、”アラサー・アラフォーのための人生100年時代の生き方”です。私だけならぼんやりとした話で終わるところですが、吉川浩満さんにもご登壇いただけることとなったので、より骨太な話ができるのではないかと思っています。(吉川さんまことにありがとうございます!)読書会後には同じ会場でクラブイベントがありまして、私もCDでDJをやります……。
読書会というのは敷居が高いと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、本の感想のみならず、それに付随するご自身の経験なんかを、気軽に語っていただける場所です。かなり刺激的な体験ができると思うので、名古屋周辺のみなさま、どうぞふるってご参加ください。23日にお会いできることを楽しみにしております。
ところでこれはいつか焼いた桃のパウンドケーキです。ファッションデザイナー、鷺森アグリちゃんのトークイベントに差し入れたら安藤桃子さんも食べてくださったというラッキーケーキ。……パンは、最近休んでいます。
時に理解を後押しするけれど、時にしがらみとなるもの
「それは大変だったでしょう……」
「いや、全然」
という会話って案外ある。
離婚を公表した後、会う人、会う人に「元気そうでよかった」と口々に言ってもらった。
心配してくれたんだなぁとありがたく思う一方で、内心すこし後ろめたい気持ちがあった。というのも、実際の私は元気どころか正直絶好調だったのだ。もっというと、これまでの人生の中でトップレベルにブイブイ言わせていた。いやブイブイ言わせていたっていうとちょっと語弊があるかも……。帰ってこない人を延々と待つ負担から解放されてとにかく身軽になったし、仕事が思い通りの速度で展開するようにもなったのだ。面白い人にますますたくさん会えるようになったし、こんな私ですらたまに異性にチヤホヤされて程よく自尊心が満たされることもあった。子供達も10代に突入し、多感になる一方、新しい刺激や楽しさを私に与えてくれる存在になり、関係性は(少なくとも私が感じる分には)良好だった。あまりおおっぴらに言うもんじゃないと分かっていながらあえて二度言うけれど、離婚後の我が人生は、思っていたよりかなり絶好調になった。
「元気そうでよかった」と言ってくれた人はきっと、「幸せな結婚生活の不幸な終わり」である離婚をしたのだから、私はさぞ悲しんでいるにちがいないと心配してくれたのだろう。だけど、私にとってはその実、離婚が「不幸な結婚生活の幸せな終わり」であって、なおかつ「新しい生活の清々しい始まり」でもあったのだ。
私たちは普段、自分が体験していないこと、かつそれまで自分の中の議題として上がらなかったものについては、いつの間にか身につけている社会通念に沿って理解しようとする。それは「離婚は悲しい」みたいに、起点と終点のある一本の線のようになっていて、うまく働けば、経験者と未経験者、当事者と第三者の間の埋められない溝の間にうまく挟まり、相互理解の一助となってくれる。私の場合、共感は生まれなかったけれど、離婚して辛いんじゃないかという仮説のもと、私を気にかけてくれた周りの人の気持ちはとても嬉しいと思った。
だけど、ときに悪く働くときもある。社会通念的にこうだから実態もこうあるべき、あるいは、こうでない人は間違っている、というふうに、人の自由な生き方を型にはめることになる。このとき、社会通念は余計で窮屈なしがらみになる。
特に家族という共同体は、ときに新しい命を迎え入れ、育てる使命を追うとされている(家族だけが、という点も社会通念だけど)ので、外の人が善意や正義の名目でずけずけと社会通念を押し付けてきやすい。世にあるものの中でもかなり上位に、色々なしがらみにまみれていると思う。具体的にいえば、家族にはお父さんとお母さんがいるものとか、お父さんは稼ぐ人でお母さんは家事をする人だとか、一部で信仰されている3歳児神話も。そうじゃないケースがどんどん増えてきているのに、長い年月をかけ、一度しっかり出来上がってしまった社会通念は、なかなか姿を消さない。
本当はもっと自由な形にもなり得ると思うし、それを模索したって誰に咎められるべきでもないはずだ。だけど、しがらみの全てをどうにかしようと考えると、家族に付随するあらゆる事象の価値やあり方を、ゼロから一つ一つ自分で考えて、ケースバイケースで定義していかなければいけないので、とにかくものすごく大変だ。私は怠け者だしそれだけの体力もないので、家族を取り巻くそういったしがらみとは、一部では正面から向き合って、一部ではヒョイヒョイと潜り抜けて、一部では利用したりすればいいと思う。そうやって、結婚したり、家族になったり、離婚したりを楽しんでいけると思う。今年6月に出版した『家族無計画』(朝日出版社)という本では、そういうことを書いた(つもりだ)。
けれど、本当は、社会通念に頼らなくても相互理解できることが一番ではあって、自分をそんなふうにストイックに鍛えていくことが、社会で共存する他者への本当の思いやりなのではないかという思いもまたある。
そんな私にとって、小説家の山崎ナオコーラさんは、ある意味でヒーローのような存在だ。山崎さんがウェブで綴られている連載『母ではなくて、親になる』第一回にはこんな記述がある。
妊娠中に、「母ではなくて、親になろう」ということだけは決めたのだ。 親として子育てするのは意外と楽だ。母親だから、と気負わないで過ごせば、世間で言われている「母親のつらさ」というものを案外味わわずに済む。 母親という言葉をゴミ箱に捨てて、鏡を前に、親だー、親だー、と自分のことを見ると喜びでいっぱいになる。
それから、山崎さんが3年前に書かれた小説『この世は二人組ではできあがらない』の中にはこんな文章がある。
まだ誰も見つけていない、新しい性別になりたい。
この物語の主人公は、男女が恋愛をしたり、一緒に住んだりして二人組になることや、家族が一つの戸籍に入ることなど、様々なあたりまえに疑問を持ち、いかなる関係においても、自分なりのあり方を見つけようとする。小説家ということもあって、山崎さんご本人をつい、主人公に重ねて読んでしまう。
お会いしたこともなく、書いてこられたものだけで想定するのもどうなのかと思うけれども、山崎ナオコーラさんはずっと、多くの人が安易に作り出す因果関係や、多くの人が妄信する社会通念と、都度正面から向き合い、ストイックに自分の正しいと思う答えを見出そうとしてこられた方ではないかと思うのだ。
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……で、実は明日11月11日、そんな山崎ナオコーラさんと「家族と社会」をテーマに、トークイベントを開催させていただくこととなった。 今年出産されたばかりの山崎さんが、今、家族をどう捉え、家族と社会のつながりをどう感じていらっしゃるのかなど、いろいろとお話を伺う中で、既存の価値や社会通念とどう向き合っていいくべきかといったことを考えたい。
このような話に興味のある方は、よろしければぜひ下記よりお申し込みの上、ぜひご来場ください。余談だけど、会場となるスマートニュース株式会社で、私は週2日働いています。
ところでこれはかなり前に焼いたブルーベリーパウンドケーキ。
赤ちゃんを産んだばかりの妹の家に持って行こうとしたものの、焼きあがったあとに「今日は忙しいからこないで」と言われ、涙をのんで我が家で食べた記憶。
『りこんのこども』取材に応じてくれたお子さんの、お母さんからの言葉。
先日カフェで仕事をしていると、隣に座っていた10代後半〜20代前半と思しき女の子2人の会話が耳に入ってきました。
「お母さんに彼氏がいたの。怪しいなと思ってたけど、やっぱりいたんだよね」
淡々と話す女の子の様子に、お母さんはシングルマザーだったのかな、と思いきやそうでもなさそうで、お父さんは目下カンカンに怒っているとか。これから離婚に向けた話し合いがもたれるそうです。
「お父さんが可哀想だね」
と話を聞いていた友達が言うと、女の子は即座にそれを否定。
「もとはと言えばパパが先にずっと浮気してて、それをママが我慢してきたの。だから仕方ないっちゃ仕方ないけど、でもママが再婚したらいやだな。だってもし私が結婚することになったら、バージンロードをそのママの彼氏と歩くことになるわけでしょ?そんな全然知らない人と歩きたくないよ」
そうだよねえ、と心の中で呟きつつ、ついしばらく彼女の話に聞き入ってしまいました。
本日、2冊目の著書となる『りこんのこども』 がマガジンハウスより発売されました。
この本には、両親の離婚を経験した子ども達の、6つの家族の物語が収められています。
制作にあたっては実際に、小学5年生から高校3年生まで、8人の子ども達に取材をし、今の暮らしや、親の離婚についてどう思っているのかといった話を聞きました。
取材を始めた当初は、子ども達が自分の離婚をどんな風に話してくれるのか、仮にもし両親の離婚が彼らにとって何らかの心の傷をつけたとしたら、この取材がそのかさぶたを剥がしてしまうことになるのではと、少なからず不安もありました。ところがいざ取材が始まってみると、意に反し、子ども達はとてもたくさんのことを 、初対面の私に、とても正直に打ち明けてくれました。
最近よく思うことに、私にとって自分のことをエッセイに書くというのは、自分自身を癒す作業、自分の中の混沌を整理し、その前より少し楽な方向に、混迷の出口を用意してあげる作業です。同様に、何かの取材を受けるときもそうで、話しながら、「そうだ、こういう風に考えたらいいんだな」と思い至ることもあります。
かなりおこがましい望みではあるけれども、取材中の子ども達の様子を見て、せめてこの時間が、彼らにとってそんな、自身の体験の整理のための一助となってくれれば、そんな風に思っていました。
……だから、先んじて原稿を読んでくださった親御さんから、「紫原さんに作っていただいた物語で、うちの子も私も救われる気持ちになりました」とメールをいただいたときには、嬉しくてつい涙が出てしまいました。その言葉で、私の方が救われた思いでした。つくづく、素直で愛しい子ども達と、寛大な親御さんとの出会いに支えられた1年でした。
今回それぞれの物語は、取材した事実をもとに、小説のような体裁で書いています。取材中の言葉だけを切り取るより、子ども達の生活する様子が見えた方が、より私が受けた印象に近いものとして伝えられると考えたからです。
ただ、慣れないこのやり方には本当に苦労しました。私の技術の稚拙さを嫌が応にも実感させられ、何度も何度も修正し、時間もかかってしまいました。そのため、出版社の方にはご迷惑をおかけしてしまったと思います。けれども、一冊の本として仕上がってきたものを見返してみると、その分、本当に良い本に仕上がったのではないかと感じています。
改めて、今回の取材に快く協力してくれた子ども達、そして親御さんに、心より御礼申し上げます。また、時間に追われる大変な状況下で、根気強く併走してくださった編集の鎌田さん、鉄尾さん、本当にありがとうございます。
前作『家族無計画』は大人の事情であるのに対し、『りこんのこども』は図らずも子どもの事情のお話となりました。ぜひ、あわせてお手にとっていただけると嬉しいです。
長きにわたり抱えていた制作が一段落したので、またパンを焼き始めました。
これはピタパン。中が空洞になっており、半分に切って具を詰めます。
最近ていねいな暮らしが止まりません。暴走するていねいな暮らし。
『家族無計画』刊行と志茂田景樹さんとのトークイベントのお知らせ
先月、初めての著書「家族無計画」が朝日出版社より発売されました。
ゲラの段階で、2016年に刊行される本にも関わらず2回もリア・ディゾンが登場しそうなことが分かり、柔らかく指摘が入りました。編集者さんが最後まで本当に根気強く付き合ってくださって完成した本です。
この本は、訳あって前回の都知事選の回想から話が始まっているのですが、思ってもみないことに発売直後に現舛添都知事の辞任が決まり、図らずも話題性という点で多大な恩恵を授かりました。誠にありがとうございました。早速、BuzzFeed 日本版さんでは下記のようなインタビューを掲載してくださいました。
また発売後は、ウェブメディアmessyでの連載をまとめた「愛のことはもう仕方ない」を上梓された歌人・枡野浩一さん主催のイベントでお話しさせていただいたり、明子の部屋と題したミニトークイベントを神楽坂のかもめブックスさんで開催し、最高に面白い店主の柳下恭平さんとお喋りさせていただいたり、楽しい催しにちょくちょく顔を出しています。
いつもイベントは、私が思わずハハハっと笑った瞬間にお客さんもドッと笑う、私が「さあ笑って」と念じながら発した一言でお客さんがドッと笑う、イベント後会場を後にしたお客さんが地下鉄の中で「抱腹絶倒」とツイートせざるを得ない、そんな一体感のある笑いを究極のゴールと定めやっているんですが、やはり素人にはなかなか思うようにはいかず、つくづく喋りっていうものは難しいなと感じます。また本の刊行記念イベントに来てくださる方が、そもそもそんな笑いを求めているのかどうかも定かではありません。ナイスパフォーマンスへの道は遠いなと自らの無力を感じ、終わった後にがっくり肩を落とすたび、電気店などをドサ回りしていた売れない時代のももクロに想いを馳せ、いつかきっと武道館に立つぞ!と自分を鼓舞しています。
ところで武道館への道のりは遠いものの、かもめブックスさんと同じくらい大好きで、憧れだった本屋さんで今週、尊敬するあの先生とトークイベントをやらせていただくことになりました。こちらです。
一時は一家離散していたという志茂田家の過去のお話や、家族の危機を乗り越えた今だからこそ語れる、現代の社会で家族を柔軟に維持するために必要なことなど語り合っていただきたいと思います。
ご参加の方々のお悩みを募集し、ゲストのお二人に応えてもらう「人生相談コーナー」も設けます(当日、会場入り口でお悩み記入用紙を配布し回収します)。
7/8(金)19:00より青山ブックセンターにて、志茂田景樹先生とお話しさせていただきます。私が長らく志茂田さんの人生相談ツイートのファンで、また長年、ボランティアで子供達に絵本の読み聞かせをしている母は、絵本作家としての志茂田先生のファンでもありました。
多くの人にアドバイスを求める人の多くはすでに自分で答えを決めていて、その答えと同じ答えの人を求めているだけに過ぎない。つまり、背中を押されたいだけなので、アドバイスを受けて正しい答えを導きだそうという気はない。こういう人は大きな挫折を味わうと人のアドバイスに耳を傾けるようになる。
— 志茂田景樹 (@kagekineko) 2016年6月30日
おれがやったことを認めてくれないからって見る目がないなんて言わないよ。お前の言葉にただ開き直って出発点にするしかないだろ。そうして、いつか見る目がなかったとお前に謝らせたい。自分を納得させたいんだよ、やはり見る目がなかったか、と。
— 志茂田景樹 (@kagekineko) 2016年6月27日
【家族無計画】無計画という深遠な計画でもあります。七夕の翌夕7/8(金)19:00~
— 志茂田景樹 (@kagekineko) 2016年7月1日
ABC本店で紫原明子さんと熱いトークを闘わせます。家族との問題を抱えていない人には特に聞いてほしいですね。 https://t.co/4tRneZ7afp
志茂田先生に直にお話しを伺えるということで、誰あろう私自身本当に楽しみなイベントです。お時間ありましたらぜひご来場ください。
※予告動画も作りました
余談ですが、本イベントのイベントページURL、そして先ほどご紹介したBuzzFeedの記事URL、並べてみるといかに私の頭がスカスカかがわかります。
https://www.buzzfeed.com/narumi/akiko-has-no-plan
http://www.aoyamabc.jp/event/noplan-family/
アキコ・ハズ・ノープラン、そしてノープランファミリー。
いい感じです!
ところでこれは先日焼いたパンです。
友人とチーズを食べる会をやると思い、チーズに合いそうな塩のパンを焼いたところ、チーズでなくて焼き菓子を食べる会だったのでまさかのまさかでその場にはチーズがありませんでした。止むを得ず、パンはパンで食べました。