しないことを決めるとモテるという仮説
先日、猫町倶楽部(読書会コミュニティ)代表の山本多津也さんと運営メンバーの皆さん、それに『理不尽な進化』の著者、吉川浩満さんとで、私たちはこれから、どうやって長い人生を乗り切るべきかという話をした。
乗り切るというのは、何もお金や住む家など現実的な問題をどうやり過ごすかってことだけじゃない。へたしたら80とか90とか、ともすれば100歳くらいまで生きるかもしれないという可能性をふまえて、何をやって時間を潰すか、飽きてもうやめたと思わないようにするか、そういうことも含む。
例えば私の場合、39歳のときに長男が、43歳のときに長女が成人するので子育てはそこで一区切り。子供2人が成人したら本格的に私の3.0時代の幕が上がる予定なので、子供が一緒に歩くのを嫌がるような奇抜な格好をしたり、好きなだけ旅をしたり、「そっちにいっちゃだめ」と通常ならついブレーキをかけたくなる危険な相手との恋愛に走ったり、果ては行きずりの相手と性行為をしまくったりしようと思っているけれど、一方でそういうことにばかりうつつを抜かし、働かずに済むほどの潤沢な蓄えがあるわけでもないので、並行して仕事はしなければならない。しかし幸いにも仕事は好きだからこれも何とか精神的支柱になるだろう。破綻した生活と仕事、この2本柱で決まり、と思っていたら、博識な吉川さんがこんなことを教えてくださった。
「今後、人工知能があらゆる仕事を担うようになって、2045年にもなると、まともに仕事に就けるのは人口の1割程度になるという予測もあります」
これは大変だ。うかうか仕事だってできなくなるかもしれないのだ。
9割が働けない環境下では各々が働いて稼いで自分の生活を維持するという今の当たり前が通用しなくなってるわけだから、よくわからないけどベーシックインカムとか何かが導入されてたりして、働かなくても生活できるようになってるのではないかと思う。だから、仕事が嫌で嫌でたまらない人にとっては朗報かもしれない。
一方で、懸念もある。30歳になって初めて職に就いた私は、慣れない仕事で神経をすり減らし、日々ヘトヘトになりながらも「ああ、今、社会の経済活動に参加してるな」「社会に貢献してるな」とを感じて、それまで知らなかった充足感を味わった。もちろん、将来納税の義務を負う子供を産み育てることだって社会に貢献しているし、働いている家族を家事で支えることだって十分社会に貢献していることには違いない。そして現在専業主婦である人に対して社会に貢献してないなんて微塵も思わない。でも、自分が専業主婦だった当時、私自身はいつもどこか、働いていないことを後ろめたく感じていた。そして働いたことで、そのもやもやが晴れた。きっと私に限らず多くの人が、自分の貢献感の拠り所を仕事においているのではないかと思うから、人工知能が私たちの仕事を担ってくれるようになれば、貢献感満たせない難民で街が溢れかえるのではないだろうか。
そんな私の疑問に対し、吉川さんはうんうんと頷いた上で、 「だからね、僕はそうなったとき、ボランティアやNPOの活動が盛んになると思うんですよ」とおっしゃった。
この話の後で、私は一つ思い出したことがあった。 最近、私の周りでモテている女の子には一つ顕著な傾向があると感じていて、それは往々にして「しない女子」であることなのだ。
唐突に何を、と思われるだろうけれど、ちょっと辛抱して聞いてください。
「しない女子」というのは、料理をしない、ゴキブリ退治をしないなど、一つや二つ、日常生活においてかなり重要なことだけど、絶対に自分ではしないということを決めている女子のことで、私が今さっき勝手に命名した。体裁としては「できない」だけど、その裏には往々にして「しない」という強い意志が潜んでいる場合が多いから、しない女子、だ。
料理はどうしてもできない(だからしない)、という女の子のもとには料理ができる男の子がなぜか絶えずどこからともなく現れるし、ゴキブリを絶対自分では退治しないという女の子は、毎回あの手この手でゴキブリをどうにかしてくれる男の子を見つけてくる。私の無根拠な所感なので信じない方もそれでもちろん結構なのだが、生活の中で一つ二つ、どうしても他人の手を借りなければならないシーンを持っている女の子ほど、どうやら現在モテてるのだ。
そして、これは何も女の子に限った話ではなくて、逆の話は昔からあったからあえて言う必要を感じないだけでもある。生活能力の低い男の子、「もぉ、また散らかしてる」とか言われながら女性にあれこれやらせる男の子は、なんだかんだでモテてきたはずだ。現に世の中にはダメ男好きの女の子はたくさんいる。
先日、渋谷のスクランブル交差点のあたりに、「May I help you?」と書いたプラカードを掲げた人たち立っていた。外国人観光客向けに、困ったことがあればお手伝いしますよ、と待機している人たちのようだった。
思うに私たちは、あのプラカードの人たちのように、全然お金にならなくても、誰かを助けたり、誰かの役に立ったりしたい。誰かのヒーローになりたい。そうして、自分に生きている価値があることを確かめたいのだ。
きっと昔なら、風邪をひいて寝込んだ人には、誰かが飲み物や食べ物を届けなければならなかった。届けた人は、それによって貢献感を感じることができた。けれども今やいたるところにコンビニがあるし、Amazonプライムならへたすれば1時間以内にポカリでもゼリーでも冷えピタでも届けてくれる。終電を逃して帰れなくなった人を誰かが家に泊めなくても、漫画喫茶もカラオケもある。困った人の役に立つ機会を、サービスやシステムがどんどん奪っている。
そんな中にあって、多少自分の生活に不自由が生じたとしても、絶対にしないことを持っていて、他者の手を借りる余地を残している人は、少なくともその一点においては、それができる誰かを、ヒーローにすることができるのだ。
『家族無計画』の中でも紹介した「自立とは依存先を増やすこと」という、熊谷晋一郎さんの有名な言葉がある。私自身、特に離婚してから、色々なことが一人でできるようになった(4ドア冷蔵庫を一人で動かすとか)。折に触れて、できるようになったできなかったことを一つ一つ数え上げては、成長しなあ、と嬉しくなったりする。 けれどもこれから先、急激に変化していく社会を健やかに生きていく上で、もしかしたら、一人で全部できることは必ずしも必要じゃないのかもしれない。 他者に依存しなければ成立しない生活を、強い信念で、ストイックに維持すること。案外これが、自分のためにも、人のためにも、重要なことなのではないかと、思い始めている。
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……で、このような話を11/23(祝)の猫町倶楽部読書会(@名古屋)で、させていただくこととなりました。
読書会の課題本は、ありがたいことに拙著『家族無計画』(Amazonで残り4ですので必要な方はお早めにお願いします)で、トークのテーマは、”アラサー・アラフォーのための人生100年時代の生き方”です。私だけならぼんやりとした話で終わるところですが、吉川浩満さんにもご登壇いただけることとなったので、より骨太な話ができるのではないかと思っています。(吉川さんまことにありがとうございます!)読書会後には同じ会場でクラブイベントがありまして、私もCDでDJをやります……。
読書会というのは敷居が高いと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、本の感想のみならず、それに付随するご自身の経験なんかを、気軽に語っていただける場所です。かなり刺激的な体験ができると思うので、名古屋周辺のみなさま、どうぞふるってご参加ください。23日にお会いできることを楽しみにしております。
ところでこれはいつか焼いた桃のパウンドケーキです。ファッションデザイナー、鷺森アグリちゃんのトークイベントに差し入れたら安藤桃子さんも食べてくださったというラッキーケーキ。……パンは、最近休んでいます。