時に理解を後押しするけれど、時にしがらみとなるもの

 

「それは大変だったでしょう……」

「いや、全然」

という会話って案外ある。

 

離婚を公表した後、会う人、会う人に「元気そうでよかった」と口々に言ってもらった。

心配してくれたんだなぁとありがたく思う一方で、内心すこし後ろめたい気持ちがあった。というのも、実際の私は元気どころか正直絶好調だったのだ。もっというと、これまでの人生の中でトップレベルにブイブイ言わせていた。いやブイブイ言わせていたっていうとちょっと語弊があるかも……。帰ってこない人を延々と待つ負担から解放されてとにかく身軽になったし、仕事が思い通りの速度で展開するようにもなったのだ。面白い人にますますたくさん会えるようになったし、こんな私ですらたまに異性にチヤホヤされて程よく自尊心が満たされることもあった。子供達も10代に突入し、多感になる一方、新しい刺激や楽しさを私に与えてくれる存在になり、関係性は(少なくとも私が感じる分には)良好だった。あまりおおっぴらに言うもんじゃないと分かっていながらあえて二度言うけれど、離婚後の我が人生は、思っていたよりかなり絶好調になった。

 

「元気そうでよかった」と言ってくれた人はきっと、「幸せな結婚生活の不幸な終わり」である離婚をしたのだから、私はさぞ悲しんでいるにちがいないと心配してくれたのだろう。だけど、私にとってはその実、離婚が「不幸な結婚生活の幸せな終わり」であって、なおかつ「新しい生活の清々しい始まり」でもあったのだ。

  

私たちは普段、自分が体験していないこと、かつそれまで自分の中の議題として上がらなかったものについては、いつの間にか身につけている社会通念に沿って理解しようとする。それは「離婚は悲しい」みたいに、起点と終点のある一本の線のようになっていて、うまく働けば、経験者と未経験者、当事者と第三者の間の埋められない溝の間にうまく挟まり、相互理解の一助となってくれる。私の場合、共感は生まれなかったけれど、離婚して辛いんじゃないかという仮説のもと、私を気にかけてくれた周りの人の気持ちはとても嬉しいと思った。

 

だけど、ときに悪く働くときもある。社会通念的にこうだから実態もこうあるべき、あるいは、こうでない人は間違っている、というふうに、人の自由な生き方を型にはめることになる。このとき、社会通念は余計で窮屈なしがらみになる。

  

特に家族という共同体は、ときに新しい命を迎え入れ、育てる使命を追うとされている(家族だけが、という点も社会通念だけど)ので、外の人が善意や正義の名目でずけずけと社会通念を押し付けてきやすい。世にあるものの中でもかなり上位に、色々なしがらみにまみれていると思う。具体的にいえば、家族にはお父さんとお母さんがいるものとか、お父さんは稼ぐ人でお母さんは家事をする人だとか、一部で信仰されている3歳児神話も。そうじゃないケースがどんどん増えてきているのに、長い年月をかけ、一度しっかり出来上がってしまった社会通念は、なかなか姿を消さない。

  

本当はもっと自由な形にもなり得ると思うし、それを模索したって誰に咎められるべきでもないはずだ。だけど、しがらみの全てをどうにかしようと考えると、家族に付随するあらゆる事象の価値やあり方を、ゼロから一つ一つ自分で考えて、ケースバイケースで定義していかなければいけないので、とにかくものすごく大変だ。私は怠け者だしそれだけの体力もないので、家族を取り巻くそういったしがらみとは、一部では正面から向き合って、一部ではヒョイヒョイと潜り抜けて、一部では利用したりすればいいと思う。そうやって、結婚したり、家族になったり、離婚したりを楽しんでいけると思う。今年6月に出版した『家族無計画』(朝日出版社)という本では、そういうことを書いた(つもりだ)。

 

けれど、本当は、社会通念に頼らなくても相互理解できることが一番ではあって、自分をそんなふうにストイックに鍛えていくことが、社会で共存する他者への本当の思いやりなのではないかという思いもまたある。

 

そんな私にとって、小説家の山崎ナオコーラさんは、ある意味でヒーローのような存在だ。山崎さんがウェブで綴られている連載『母ではなくて、親になる』第一回にはこんな記述がある。

 

 

妊娠中に、「母ではなくて、親になろう」ということだけは決めたのだ。 親として子育てするのは意外と楽だ。母親だから、と気負わないで過ごせば、世間で言われている「母親のつらさ」というものを案外味わわずに済む。 母親という言葉をゴミ箱に捨てて、鏡を前に、親だー、親だー、と自分のことを見ると喜びでいっぱいになる。

 

 

それから、山崎さんが3年前に書かれた小説『この世は二人組ではできあがらない』の中にはこんな文章がある。

 

まだ誰も見つけていない、新しい性別になりたい。

 

この物語の主人公は、男女が恋愛をしたり、一緒に住んだりして二人組になることや、家族が一つの戸籍に入ることなど、様々なあたりまえに疑問を持ち、いかなる関係においても、自分なりのあり方を見つけようとする。小説家ということもあって、山崎さんご本人をつい、主人公に重ねて読んでしまう。

 

お会いしたこともなく、書いてこられたものだけで想定するのもどうなのかと思うけれども、山崎ナオコーラさんはずっと、多くの人が安易に作り出す因果関係や、多くの人が妄信する社会通念と、都度正面から向き合い、ストイックに自分の正しいと思う答えを見出そうとしてこられた方ではないかと思うのだ。

 

 

……で、実は明日11月11日、そんな山崎ナオコーラさんと「家族と社会」をテーマに、トークイベントを開催させていただくこととなった。 今年出産されたばかりの山崎さんが、今、家族をどう捉え、家族と社会のつながりをどう感じていらっしゃるのかなど、いろいろとお話を伺う中で、既存の価値や社会通念とどう向き合っていいくべきかといったことを考えたい。

 

このような話に興味のある方は、よろしければぜひ下記よりお申し込みの上、ぜひご来場ください。余談だけど、会場となるスマートニュース株式会社で、私は週2日働いています。

 

kazokutoshakai.peatix.com

 

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BKCXLgehNpJ/

 

ところでこれはかなり前に焼いたブルーベリーパウンドケーキ。

 赤ちゃんを産んだばかりの妹の家に持って行こうとしたものの、焼きあがったあとに「今日は忙しいからこないで」と言われ、涙をのんで我が家で食べた記憶。