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人と対等な関係を築けないのは幼少期にクラスで一番身長が高かったからという仮説

 
人と対等な関係を築くというのは本当に難しい。
 
敬うべき目上の人と可愛がるべき後輩、両者に対する振る舞いについてはこうあるべきという明確なイメージがあるのだけど、対等な友人、縦でなく真横にいる人と心地よい距離を保つというのがすごく苦手なのだ。
 
特に厄介なのが、自分も女性なのに自分以外の女性に対して守ってあげなければという気持ちがやたら強いところで、先日もバーで知り合って何気なく話していた女性に「なんで同い年くらいなのにお母さん目線?ww」と突っ込まれてアイタターと思った。
 
すべての原因は、同級生の中でも特別早く母になったせいだろうと思ってきたのだけど、最近あらためて思い返してみると、実は子供を産むはるか前から同じ課題を抱えていた。小学生の頃から漠然と、みんなと同じになりたい、と思い続けていたのだ。これってつまり、立場的には完全に対等な同い年のクラスメイトの中にあって、誰にも等身大の自分を投影できていなかったということだ。
 
じゃあ、なんで私はみんなと同じじゃなかったのかと考えると原因は一つしかない。身長だ。
私は小学3年生の頃には身長が150cm以上あってクラスで一番大きかった。しかし4年生で初潮が来て身長は伸び止まり、それ以降は5cm程度しか伸びなかった。だから今、大人としては背が低い方なのだが、私の心持ちのベースは全て、クラスメイトを見下ろしていた幼少期にあるように思えてならない。何しろ体と心は一体。心で拒んでも体が正直なのはいやらしい小説の中でだけだ。身体的には同級生を見下ろしながらも精神的には相手に見下ろされる、あるいは、身体的に自分を見上げてくる相手に可愛いなあよしよしと思われる。そういったこともあり得ないことはない。あり得ないことはないが、何か不自然じゃないだろうかと自分が自分に絶えず問いかけてくるのである。心と体が一致していないと、何となく落ち着かないのである。だから、体に見合った自然な振る舞いをするように心がける。その結果、同級生を、精神的にも一段階上から眺める自分が登場する。
 
三つ子の魂百までではないけれども、幼少期にそうやって自分の目線の向きを常に意識していたから、いまだにその呪縛から抜け出せない。人間みな平等、上も下もない、そんなことは分かってるんですがつい同い年くらいの女の子は守らねばという気になるし、そんなのもうやめようと思って対等な振舞いを心掛けたとしてもほんとにできているのか気になって気になってしょうがない。だから、そんなこと気にしなくていいところ、上か、下に対峙する相手がいてくれるほうが助かるのだ。
 
で、不思議なことに、大人になってからものすごく意気投合して仲良くなった女友達の多くは、私と同じように幼少期に身長が飛び抜けて高く、早い段階で生理がきて成長がきて止まった、という同じ経験をしているのである。相手のポジショニングに敏感で、本当はそれを気にしたくなくて、でも無意識に気にしてしまう悲しい性分を抱えて生きている元巨人達が、時を越えて言葉もなく惹かれ合うのである。根深い。
 
こういうこと考えてると、

子供を褒めて評価するのは良くないらしい - 手の中で膨らむ

この記事の中で紹介したアドラーの言う横の関係なんてのも、難しいけれどやってればいつか体得できるものでなく、やっぱそもそも無理ゲーなんじゃないかという気になる。人それぞれ体のサイズが違うのだから相手が受ける印象や本人から見える世界も違う。体を脱ぎ捨てて精神だけで対話できないのだから、誰に大しても対等に、横の関係を保つなんて途方もない話しだ。理屈としてそうできればそれにこしたことはないだろうから、恐らく位置づけとしては神社で売ってる交通安全のステッカーを車に貼る程度に、たまに思い出して祈念する、くらいで良いのかもしれないな。

 
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ところでこれは先日買った皿と、皿に乗せたサラダ。今日はまだパンを焼いていないので代わりに皿をご紹介したい。
GWに九州に帰省した際、佐賀県で開催された有田陶器市に行ってきたのだが、そこで出会った徳太郎窯というところの皿だ。徳太郎さんが焼いている。大変気に入っている。

徳太郎さんこれからも頑張ってください!