主人公の存在に気付いてしまう者としての役割。

娘は、可愛いものが好きで、歌ったりダンスしたりするのが好きな、ある面ではいかにも女の子っぽい女の子ですが、実はものすごく分析力が高く、周りの人たちのこととか、女の子っぽく振る舞う自分自身のこととか、絶えず冷静に観察するクールな部分があります。さらに、どうやら自分でもそのことに気付いているらしい、と分かったのは、昨日わたしにこんなこと言ってきたからです。

「私、実は○○ちゃんにライバル心持ってたんだよね。だって○○ちゃんって顔も女の子っぽくて可愛いし、先生にも好かれてるし、うらやましいなーと思ってた」

わたしこれにはちょっとびっくりしました。だってわたしが小さいときには、○○ちゃんのことうらやましいなーとか、ライバル心とか、心の奥底でめらめら、ドロドロと抱きこそすれ、それをあっけらかんと親に打ち明けるなんて、とてもじゃないけどできなかったからです。

世の中には生まれながらに無邪気で、屈託なく、いつだってきらきらと眩しい主人公になれる女の子、というのが必ず存在します。だいたい、一つのコミュニティにうまい具合に一人ずつはいます。

一方で、そういう女の子の特別な存在感に、割と早い段階で気付いてしまう女の子というのも必ず存在する。わたしがそうだったのでとても良く分かるのですが、そういったタイプの女の子はたとえそこからどんなに頑張っても、無邪気で屈託のない主人公にはなれないのです。すべては、これまた生まれながらに、割と精度の良い観察眼を持ってしまったがゆえの定めです。

自分に似合う似合わないを度外視してプリンセスの世界に陶酔できたらどんなに幸せだろうと、何度思ったことでしょう。
屈託なく大人に甘えたり、わがままを言ったり、それが無条件に許される人生だったらどんなにイージーモードだっただろうと、何度思ったことでしょう。

でも悲しいことに、観察者としての定めを担ってしまうと、あちら側の世界にはどうしてもたどり着けないのです。

わたしもそうだったし、よくよく聞いてみるとわたしの母もそうだったようです。そして娘も。。これはもう宿命かもしれません。。

けれどもわたしは娘に伝えたい。決して悲観することはないのだよ、と。長年、ある一定の距離から世界を観察して、決して主人公にならずに自分の中に蓄積し続けたデータは、大人になったときにものすごく物を言うのです。

ましてや、○○ちゃんがうらやましかった、と今、7歳にして言えてしまう潔さを持った娘はきっと、幼い頃のわたしよりもよりタフに、ポジティブに自分を受け入れ、世界の扉を開くことができるはず。

やや神経質で、臆病なところがある娘のこと、お母さんはちょっと心配していたけれど、思いがけない一面を知ることができてとても安心しました。きっと自分の力で、これからぐんぐん面白い人生にしていけるなぁと、頼もしく思いました。