「執着」の根源は「怖れ」だということです
私も相当いろいろなものに執着しまた執着されてきたけれど、このページを見て目からウロコが落ちた。
…執着のベースには怖れがあり、それを手に入れたいという「特別な意識」が働いて、適切な選択や言動ができなくなってしまうからです。心に余裕がない状態で周りのことがよく見えなくなってしまいます。
執着の根源は怖れだということです。
ここには、自己評価に対する自身の評価を高めることが自分を執着から自由にする術だとも書いてある。
仁村ヒトシさんの名著、恋とセックスで幸せになる秘密の中でも、心の穴を他者で埋めようとするのでなく、自身の心に穴があることを認識した上でありのままを認め、受け入れることが、ダメな恋愛やセックス依存から逃れる唯一の方法だと書いてあった。ダメな恋愛なんて執着心の押し付け合いそのものだろうと予測されるので(何しろ現役を退いて早12年ですので)、やはりこれらのことを考えると、執着に囚われず、自分の意のままに、自由に伸び伸びとしなやかに生きるためには、漠然とした怖れに打ち勝つ、勇敢な心を持っている必要があるのだと思う。
勇敢であること、勇敢な人。
勇敢、という言葉が今私の中で非常にホット。
気になり出すと日常生活の様々なシーンで、ああ、今私がここで勇敢であったならば…と思う。たとえば知り合って間もない人との会話がなかなかままならないとき。
この人は今、この言葉、この話をどういう意図で使っているのだろう。この話でどう思い、私に何を共感してほしいのだろう、あるいは意見してほしいのだろうと悩む。しかしそこは人対人、別に仕事じゃあるまいし悩む必要なんてないのだ。勇敢に切り込め!相手の思惑を気にすることなく今私が考えてることそのまま投げ返すんだ!相手にぶつかったボールがたとえどんな風に跳ね返って再びこっちに飛んでこようと、予期せず体のどこかに当たって痛い思いをしようと、別に死ぬわけじゃない。勇敢であれ自分!!!と奮起するけれどやっぱりなかなかままならない。
どんな未知、どんな恐怖と対峙してもビクともしない岩のような勇敢さを持ちたいものだけどまあそれは難しいから、せめていざというときにはぐにゃっと曲がって危機回避して、またビュンとまっすぐ元通りになる、そんな竹のような勇敢さを身につけたい。
私は竹になりたい。
ところでこれは今日食べたパン、他。
「わざわざ」というパン屋さんから取り寄せたカンパーニュと、BreadWorksというパン屋さんのカンパーニュ、2種類。どちらも当然のように美味しいけれど、2種類食べ比べてみるとお店によってこうも味が異なるものかと驚く。