自分の生活と折り合いをつけながら震災について考えること。

昨年10月末に、お仕事で南相馬に行きました。

南相馬では現地の方々とお話させていただいたり、市役所の方のご案内のもと、福島第一原発から20キロ圏内の現状を視察することができました。

 

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建物や木や電柱が全て流されて、なにもなくなった広い土地に、点々とがれきの山ができていて、震災から1年半が経過しているのに尚、がれきの処分場すら決まっていないという現実があることを知りました。 

 

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我々、東北の外の地域に住む人間は、たとえ現地に住んでいなくても、今も尚、困難な暮らしに直面されている被災地の人々が、1日も早く平穏な暮らしを取り戻せる様にと心から祈っています。それはきっと、大なり小なり日本に暮らすほとんどの人が同じ思いを抱えているはずなのだけど、毎日普通に生活していると、どうしたって目の前には自分が解決しなければならない問題が現れて、それ以外のことはとても考えられないという状況が生じます。あるいは、楽しくてお腹を抱えて笑ってしまうようなことが起きたりもします。そんな中で、自分に余裕があるときにだけ、思い出した様に真面目な顔をして復興とか原発について考えるのって偽善なんじゃないかなって、ちょっと後ろめたい気持ちが生まれます。軽口を叩けない大切な問題だと分かっているからこそ、この問題について日常的に触れる機会はどんどん減ってしまう。私の身の回りで、はこういうことが起きています。

 

南相馬では、個人としての暮らしの様々な部分を犠牲にしながら、地元の復興のために尽力されていらっしゃる市議の方とお会いしました。

私たちがいくら東京から、自分に余裕のあるときにだけ復興を祈ったところで、そんな方々の思いの大きさにはとても及ばないというのはあまりにも明白です。

 

また震災が起きたとき、情報源として我々が真っ先に頼ったインターネットには、正確な情報と同じだけ間違った情報も流れ、そこで混乱が生じたために、我々は余計に「間違った情報」に敏感になっています。こと東北の問題については、現地に住む人々の平穏を心から望んでいるからこそ、誰かを傷つけないためにも間違った情報を流せない、正しい情報でなければ語れない、という気持ちがあります。

 

でも、当事者たる強い想いを持っていなければ語れない、正しい知識を持っていなければ語ってはいけないと感じさせる空気が、東北の外にいる人たちから震災の記憶について語る機会を失わせ、被災地をどんどん孤立化させているのだとしたら、何とかこの状況を変えていかなければと思います。

 

私はたまたま東京に住んでいて、東北の復興とは直接的には関係のない仕事に就いているけれど、それでも現地に住む人たちの生活から一日も早く不要な苦しみが取り除かれるようにと願っています。この思いを前提に、今後はもっと意識的に、震災について、被災地の現状について、身近なところでアウトプットしていこうと思います。

今年は、そんなことを考えました。