孤独な戦いに終止符が打たれたかのように思われた日

宅配野菜の段ボールが届いたら、開封して中の野菜を冷蔵庫に入れる。

これが「暮らす」ということだ。

 

けれどもここ最近寒いし、ちょっと忙しくて、真っ当な暮らしがままならない。今日も気付いたらソファで眠り込んでいて、そんなときに例によって宅配野菜が届いたので、受け取るだけ受け取って、開封せずにひとまずカウンターの上に段ボールを放置して、もう一度ソファで眠ってしまっていた。しばらくすると自分の部屋にいた息子がやってきて、「この野菜、冷蔵庫に入れなくていいの?」と声をかけてきた。寝ぼけながら何かしら(覚えていない)返事をしたところ、ぼんやりとした意識の中に、べりべりと段ボールの蓋を止めるテープをはがす音が聞こえてきた。わたしはそれを聞きながら、あぁ、嬉しいなあと、やはりぼんやりとした意識の中で、言いようのない幸福を感じていた。 

 

もともとわたしは、食パンの袋を平気で開けっ放しにするような、暮らしの能力の低い子供であった。パン、ということで言えば最近なんかは粉からパンを焼くのであたかも暮らし上手のように思われがちだが、その実パンを焼くのは短距離走、暮らしを営むのは長距離走、種目がちがうのである(どや)。ある程度分別のつく年頃にもなって、テストで良い点がとれるようになっても、雨が降ったから洗濯物を取り込まなければ、食卓のマーガリンを冷蔵庫にしまわなければ、といった発想に、決していたらなかった。そういう分野で気を利かせるアンテナが欠落していた。それでよく、母や妹に怒られていた。

そんなわたしが大人になり(18のときなので正確にはまだ子供だったんだけど)、暮らしをともにするパートナーに選んだ相手が、不幸なことにわたしよりもさらに暮らす能力に乏しい人だった。

子供も生まれ、さすがにちゃんとしようと、わたしが持ち前の生真面目さで自分を律し、食後の食器がシンクに溜まらなくなり始めた一方で、パートナーは年々、暮らし力のなさに磨きをかけていった。次第に何日も同じ服を着るようになり、リビングでおしっこしたりもした。挙句、暮らしがどうこうというレベルを超越し、何度かの失踪を経て、住まいからもフェードアウトした。その結果、我が家の真っ当な暮らしのすべては、家の中でただ一人の大人であるわたしに委ねられたのである。

 

100均のプラスチックのカゴ(昔はこれが世の中で最もダサいと思っていた)で工夫をこらして整頓された家の中で、毎日清潔な服を着て、毎日手作りのご飯を食べる。子供の頃のわたしが当たり前に受け止めていた環境を、いざ同じように我が子に提供しようと思うと、わたしの気力、体力がいかにあまちゃんであったかということを嫌が応にも実感する毎日。ポーカーフェースでこなしていた実家の母は偉大だった。自分が母となり12年が経過した今、昔に比べるとさすがに少しは暮らす能力も向上したとはいえ、やっぱりいまだにヒーヒー言っている。

 

そんな中にあって、わたしは本当に嬉しかったのだ。息子が、段ボールの中の野菜を冷蔵庫にしまわなければいけないと、気付いてくれたことが。わたしが寝ぼけて適当な返事を返しても、自ら段ボールを開けて、冷蔵庫に野菜をしまってくれたことが。

何しろ暮らすということにおいて、わたしは何年も家の中で孤高の戦士であった。子供達の真っ当な暮らしの立役者となるべく、これからもずっと孤独に、一人で戦い続けなければならないと思っていた。だけどそうじゃなかった。守られ、育てられるだけの存在であった子供達は、いつの間にか、この家の中で暮らしをともにするパートナーへと育っていたのだ。

 

ソファの上で寝ぼけながらも、わたしはしばらくの間そんな調子で感慨に浸っていた。寝起きのテンションでちょっと泣きもした。

……で、ようやく起き上がって、開封された段ボールの中を覗き込み、絶句した。

 

驚くべきことに野菜は、綺麗にそのままの状態で段ボールの中におさまっている。

 

「……野菜、冷蔵庫に入ってないけど」

困惑するわたしに息子が言った。

「蓋、開けといたから。あとはママが冷蔵庫に入れといて〜」

 

なぜ蓋まで開けてやめるんだ!!!

 

未だ半人前の暮らしのパートナーをなる早で一人前に仕上げていく、新たなるミッションがスタートしたのであった。

 

 

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ところでこれは先日焼いたチーズケーキ。ホットケーキミックスを使うレシピを試してみたところなぜかボッコボコである。このところパンを焼いても失敗続き。仕方ない、そんなときは瞑想でもしよう。