痛みに強くなることは孤独になること

私は、それまでどんなにわあわあ声を張り上げていても、ちょっと悪目立ちしそうになるとすぐに静かになって、あたかも死んだフリをして人々の視線の矛先が違うところにいくのをじっと待つという、ネット上の行動においてはそうい小心者の振る舞いをしがちなので、そういった理由や、その他の理由が諸々あって、毎日書こうという気持ちで始めたブログが随分ご無沙汰になってしまいました。

たかだか100人や200人、1000人や2000人に見られたところで何だというんだ!!もっと人目を気にせず生きていきたいものだ!!と思うし、昔に比べるとちょっとは耐性もついてきたのではとも思うけれど、やっぱり知らない人に怒られたり、嫌われたり、軽蔑されたり、笑われたりしたくない、という気持ちが強いです。

先日私は同世代の、バリバリ働く女の子の集まりに呼んでもらって、そこでは本当に楽しい、刺激的な時間を過ごしてきたのですが、その中でもちょっと似た様な話が出ました。簡単に言うと、やっぱり鈍感力が必要だよね、という話です。

人からの評価を気にすることなく、めげずに、強引にポジティブ解釈し、しぶとく生き抜いている女の子はやっぱり大成している。ごちゃごちゃ言っても結局やった者勝ち♪を体現できている女の子ってかっこいいなあと思うんだけど、でも、私の様な凡人はふと不安になるんですよね。そっち側にいってしまって、大丈夫なのかな、と。殴られて、痛い、と感じる神経を意識的に遮断することって、実は案外、やろうと思えば出来るような気がするんです。でも、それが出来る人と出来ない人の間には、やっちゃっていいのかな。。?それをやっちゃうと、もう二度と戻って来れなくなっちゃうんじゃないかな。。?という躊躇に打ち勝つことができるか、負けるのか、という大きな違いがあるんだろうと思います。ひとたび痛みに対して不感症になってしまうと、あるいは痛みに対して不感症を装うことを自分に課してしまうと、そりゃあもう、大変孤独だろうと思います。漠然とそういうことを感じてしまうから、過度に鈍感にならないよう、痛みを感じるべきときにはお約束のようにある程度痛みを味わっておこう、とすら思ってしまう。。でも、一方で自分の意識の如何に関わらず、真に百戦錬磨になってくると、きっと、ここが痛みの感じどころだな、という直感さえも働かなくなり、仮に攻撃にやられ、血がダラダラ流れていても、あっ、やだっ、蚊にさされたかな?程度で真顔でいられるようになるんですよね。だから結局のところ、後天的にスーパー打たれ強くなるには荒行で体を慣らすしかない!そんなことを思いました!明日はもっと実のある話を書こう。