Facebookページを作りました。更新状況、製パン状況などを投稿します。
人を気持ちよくするのが発する者の使命
少し前、幸運なことにジャズピアニストの上原ひろみさんのライブを拝聴する機会に恵まれたのだ。上原ひろみさん、もともと好きでよく聴いていたけれど、いざ生で聴いたらもう、想像を越えてとんでもなかった。
まず、人間離れした技術でダダダダっと音が畳み掛けてくる。なんだこりゃああと度肝を抜かれている間にも、まだまだ序の口、天井なしって感じでテンションうなぎのぼり。え、もっと?もっとなの?ってこちらはハラハラする。ステージ上の上原さんは、余裕綽々といった様子で、もっともっともっと畳み掛けてくる。ごめんなさい負けました、と挑発にひとたび屈すると、もうその瞬間からめちゃくちゃ気持ちよくなる。無抵抗な私を、畳み掛けてくる怒涛の音が包み込んで、放り投げてみたり、ゆさぶったり。もてあそばれて、最高にいい気持ちになるのである。
音を奏でる傍ら、上原さんはしばしば「はぁああああっ・・」と地鳴りのような呻き声を上げる。その姿はさながらピアノの神を自身に宿らせた荒々しいイタコのよう。神か、悪魔か。人間でない何かを見ているようだ。ところがひとしきり演奏が終わり、ちょっとの合間のMCという段になると、途端に控えめで可愛い、赤ちゃんみたいな喋りの上原さんが出現するのだ。えっ、と混乱する。これはこれで超可愛いけれど、この人は果たしてさっきの人と同一人物なのかと疑う。しかしMCの時間はあっという間に終わる。必要最低限に喋って、あとは「私よりピアノのほうがよく喋りますので」とはにかみながら言う上原さん。再びピアノの前に座って演奏を始める。そしたらやっぱり再び、猛々しいピアノの神を宿らせるのである。
ライブが終わったあとには私、俗っぽい表現ではあるが、奇跡の目撃者になったと思った。とんでもないものを見てしまった。生きながら人間を超越した存在になれる人っているのだ、と。
上原ひろみ / Solo piano Live at BlueNote N.Y. ダイジェスト ...
この日のライブ会場はブルーノート。驚いたことにこれだけの熱量の公演を、上原さんは日に2度、4日間繰り返すという。息を切らして、汗を流して、鍵盤相手に戦うボクサーみたいな、でも決して乱暴ではなく極めて繊細な演奏を、2時間ほどぶっ通しで、日に2回、4日間も。こんな小さな体でそんなことやったら疲れ果てて死んでしまうのではと心配になるほどだが、彼女はタフだ。
何十人といる聴衆をたった一人で気持ち良くさせるっていうのはつまり、投網のような形で自らが圧倒的な熱を放って、それでもって全員を有無を言わさず取り込んで、ブンブン好き勝手に振り回すということなのだ。放つ熱量をケチケチ出し惜しみしていては決して相手は気持ちよくなれない。命を削るほどのエネルギーをぶわっと一気に注いで、そのまま最後まで決して手を緩めない。後から死ぬほど疲れるだろうけれど、それこそが芸を披露するということなのだ。
折しもその頃の私は、ケイクスでの連載「家族無計画」のスタートを目前に控え、準備に勤しんでいる最中であった。自分のホームでないステージで芸を披露させてもらう以上、それ相応の覚悟を決めなければと思った。しかし果たして自分も上原さんのように献身的になれるのかと自問自答。ライブ後にはしばらく途方にくれた。しかし彼女はプロ中のプロ。分不相応に比較し途方にくれてばかりいても仕方ないからすぐに開き直ったわけだけれども。
最近とある仕事の関係で人様のブログをこれまで以上にたくさん拝読している。
読んでいてぐっとくる記事というのは、筆者が読者に対してつとめて献身的であると感じる。伝える上で必要とする熱を惜しんでいない。行間を多用し、安易に「あとは察してね」なんて求めたりもしない。かといってわがままに冗長でもない。読む人がついて来れていないのに自分のリズムを押し付けたりしない。とことん相手を慮って、とことん自分を律する。このような書かれ方をしているブログ記事は長くても短くても、読ませるなと思う。
音楽でも、文芸でも、他者に向けて芸を披露する者の最大の使命とは、その瞬間相手をどこまでも気持ちよくする、支配してあげることなのではないかと最近よく思う。相手のことをとことん思う。だからこそなめてかかりもしない。こんなことやったってついてこれるでしょと挑発して、ほんのちょっと苦しめば越えられるようなハードルを設置してあげる。ハードルを越えてついてきたあなたにだけ見える世界を見せてあげる。そうやってひとときの間にも、作為的に様々な体験をしかけてこそ、相手から奪った時間を、ほんのわずかでも価値あるものにできるのではと思う。
上原ひろみさんは本当に献身的だった。
私も、自らの発するものでいつの日か彼女のように、大勢をまとめて死ぬほど気持ちよくさせたい。骨抜きにさせたいものだと思う。
・・・そんな大それた野望を抱きながら色々と書かせていただいております。
以下最近の更新です。
また少し前、おひとりさま女性に向けた新メディアSOLOで新しい連載が始まりました。
タイトルは「世界は一人の女を受け止められる」編集の子が考えてくれました。かっこいい。隔週更新予定です。
引き続きよろしくお願いします。
ところでこれはずっと前に「家族無計画」のタイトル画像用に焼きおろした(新語)シナモンロール。タイトル画像、最近新しいパターンに変わりました。前回のタイトルパン画像はエイリアンに見えると評判でしたが今回は何に見えるでしょうか?
色々とご報告
何から伝えればいいのかわからないまま時は流れて浮かんでは消えていくありふれた言葉だけを綴っては消し綴っては消ししていたら結構日が経ってしまいました。
先週から今日にかけて、いくつか私の書いた記事が公開されました。
ひとつめは、SOLOという、その名の通りおひとりさま女性をターゲットとした新しいメディアに公開されたこちらの記事。
「結婚したら負けかなと思っている」という特集の中で、結婚したからといって決してそれで「一丁あがり」にはなれないし、あがっちゃったら面白くないし、という話を粛々と書かせていただきました。
ふたつ目は、cakesで始まったこちらの連載、タイトルは「家族無計画」です。
結婚や家族についての話を書いていく連載で、第一回には自己紹介をかねて結婚のいきさつなどを書きました。
そして今日、早くも2回目が更新されました。(毎週木曜更新予定です)
実はもう離婚してかなり経ちます。もともと5年近く別居していたので離婚したからといって別に何も変わらないんですが、子供たちは、もしかしたら何かが大きく変わるかもしれないと不安を抱いていたようなので、実際に何も変わらないという実感を持ってくれるまで公表を控えていました。また同じような理由で、私の戸籍上の苗字も変わらぬままです。こんなに執筆のお仕事をさせてもらえるようになるとわかっていたら、もうちょっと早い段階で本格的にペンネームに切り替えるなどしていたところでしたが、ちょっとタイミングを逃しました。以前お仕事でご一緒させていただいたメディアアクティビストの津田大介さんに「今後仕事に本腰を入れていくようになれば苗字問題はいずれ出てくるだろうから、今のうちにAKIKOか、あるいはジャスミンというペンネームにしたら?」と言われたのは3年前のこと。「なるほど。AKIKOかあるいはジャスミン……ジャスミン…?」と脈絡もなく飛び出したジャスミンに困惑した日のことを懐かしく思い出しています。言われた通りに、言われたタイミングで、AKIKOかジャスミンにしていれば良かったのだろうと思いますが、何分計画性に乏しく。。色々とご容赦ください。
SOLOの寄稿も、cakesの連載も、それから近くもう一つ連載を始めさせていただくことになっていて目下準備中なんですが、そちらの方も、関係者の皆さんの優しさと根気強さに、大いに支えていただいております。学校の長距離走を一人周回遅れで死に物狂いで走ってる最中、すでに走り終えた性格のいい子が「がんばれ!がんばれ!」と応援しながら伴走してくれてたあの感じです。本当にありがたいです。また編集の皆さんのみならず、連載のきっかけを作ってくださった方、キャバクラ体験記のために7万円を投じてくださった方など、これまで要所要所でお世話になったみなさんにご恩をお返しする意味でも、たくさんの人に読んでいただけるよう頑張りますので、どうか末長くおつきあいいただけますと幸いです。
こちらは「家族無計画」タイトル画像用に焼いたチョコパン。他にも数種類焼きまして、画像の方も数パターン用意してくださっているそうなのでご期待ください。
本日3月19日19:00より美少女の横でサラリーマンが飛ぶ件でツイキャス
常々娘とは慈悲深い生き物だなあと思っておりましたが、こちらの写真集では、そんな娘の慈悲深さにお父さんたちが存分に甘えて、もう最高!幸せ!という様子がいっぱい詰まってます。
松谷みよ子さんの綴った夫婦の形「小説・捨てていく話」
モモちゃんとアカネちゃんの本(1)ちいさいモモちゃん (児童文学創作シリーズ)
- 作者: 松谷みよ子,菊池貞雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1974/06/27
- メディア: 単行本
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もしかしたら前にも一度書いたような気がするけど、気のせいかもしれないのでまたこの話を書く。
私や妹がまだ小さかった頃、母がよく読んで聞かせてくれた「ちいさいモモちゃん」。
モモちゃんが生まれた日に、靴下やチューインガムがお祝いにかけつけるところから始まる子供向けの童話だ。実家にはこの1冊しかなかったけれど、大人になって、私に子供が生まれてから、この本にはもう5冊続きがあることを知った。2作目から順に、「モモちゃんとプー」「モモちゃんとアカネちゃん」「ちいさいアカネちゃん」「アカネちゃんとお客さんのパパ」そして「アカネちゃんと涙の海」である。
モモちゃんとプー モモちゃんとアカネちゃんの本(2) (講談社青い鳥文庫)
- 作者: 松谷みよ子,菊池貞雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1980/11/10
- メディア: 新書
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モモちゃんとアカネちゃんの本(3)モモちゃんとアカネちゃん (児童文学創作シリーズ)
- 作者: 松谷みよ子,菊池貞雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1974/07/04
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モモちゃんとアカネちゃんの本(4)ちいさいアカネちゃん (児童文学創作シリーズ)
- 作者: 松谷みよ子,菊池貞雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1978/11/30
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モモちゃんとアカネちゃんの本(5)アカネちゃんとお客さんのパパ (児童文学創作シリーズ)
- 作者: 松谷みよ子,伊勢英子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1983/07/05
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モモちゃんとアカネちゃんの本(6)アカネちゃんのなみだの海 (児童文学創作シリーズ)
- 作者: 松谷みよ子,伊勢英子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1992/04/07
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モモちゃんには途中からアカネちゃんという妹が誕生し、4作目以降はお姉さんになったモモちゃんに代わり、アカネちゃんが主人公となって物語が続く。しかしちょうどその頃から物語は、子供向けにしてはシリアスな展開を迎える。靴だけの姿で帰ってくる実態のないお父さん。病に伏し、死神に狙われるお母さん。お母さんに「あんたのご亭主は歩く木だ」と告げる森の魔女 。タイトルの通り5作目でお父さんとお母さんは離婚し、お父さんはお客さんになる。そして6作目の「アカネちゃんの涙の海」では、お父さんは亡くなってしまうのだ。
松谷みよ子さんの書かれたこのエッセイの中では、そんなお父さんとお母さんの本当の話、松谷さんと亡くなったご主人との物語が、小説という体裁をとって語られている。仕事場として別宅を近所に借りるといいだした夫。女性と住むのだと知りながら、言われるままにお金を用立る妻。なんとかお金ができたら夫と二人でのんきに契約に出向き、夫と誰かがこれから暮らすであろう住まいを整える妻。そんなところから話が始まる。
正常が異常、異常が正常な環境の中で、劇団を抱える夫を、精神的にも、経済的にも支える妻。しかし幼少期の体験から過度に喪失を恐れる夫は、過激な破壊で何度も何度も繰り返し妻を試す。
「僕は人の前で君を殺す。君は人の見えないところで僕を殺す。どちらも罪深いことです。」
夫が妻に書いた手紙に記されていた言葉。弱い自分を見捨てない妻も、また弱い自分を見捨てる妻も、どちらも自分を殺す脅威であり、同時に、すがらずにはいられない絶対的な存在だったのだろう。
夫に別れを告げたときのこと、父の死を受け涙の海を作った子供たちのこと、夫の遺骨を埋葬したときのこと。描かれているひとつひとつのシーンはすべてとても切ない。「夫婦とはまことに切ないものです」 帯に抜き出してある言葉のとおり。けれどもそのもととなっている夫と妻、父と子の絆はそれぞれとても太く、強く、ときに切ろうにも切れない呪縛のようにも思われる。この本の素晴らしいところは、そういった人間の困難さまで、どこかファンタジーのように、優しく、美しく綴られているところだ。
女性として、こんな風に生きたいと常々思ってきた。
松谷みよ子さんは先月28日、老衰で亡くなられたとのこと。
心よりご冥福をお祈りします。
彼女のあの子が「男児」か「大人の男」かを区別する方法。
20歳をもって一応は成人というけれど、20歳の誕生日をむかえたからって突然大人のボディにチェンジするわけでもなく、また突如、なにがなんでも選挙に行きたいマインドになることもない。わたしたちは赤ちゃんとして生まれたときから、ゆっくり、じわじわと大人になっていくのである。大人と子供の間に明確な線引きなんてない。自分の中では。…ところが他者に接する場合になると話は別で「大人」と「子供」の間には、無自覚にも、結構はっきりとした区別をしているようなのだ。
というのも、最近うちの12歳の息子、私の友人女性達からすっかり「大人の男」として扱われるようになってしまったのである。
考えてみればそりゃそうで、息子はもはや私より身長が高く、声は日に日に低くなっている。大人っぽいを通り越して、ともすればオッサンのような安定感を漂わせてさえいる。昔から、恋人というより結婚相手としての需要が高そうなタイプだと感じていたが、年々それは確信に変わりつつある。一緒に暮らしている母親としては、まだまだ12歳のあまちゃんという感覚でいるが、サイズと安定感で客観的に判断すれば、大人枠に入れられてもおかしくないまでに成長してしまったのだ。
そんな中にあって、ちょっと気持ち悪いことを言うようだけど、彼女は息子を「大人の男」として見ているな、彼女は息子を「男児」として見ているな、という区別はかなり明確につくのだ。もちろん、息子を「大人の男」として見てくれている女性が息子をギラギラした目で見ているとか、痴女だとかいうことではないのだ、くれぐれも。おそらくそれは本人ですら無意識の区別。そしてそもそも私の友人達は全員、昔から一貫して、とても誠実にうちの子供達に接してくれている。それにはまったく何も変わりない。その前提のもとで、「男児」から「大人の男」としての扱いに変わったなという瞬間は、ある基準をもってはっきりと分かる。
すごく単純な話で、息子がちょっといたずらをした場合に「もぉ〜。笑」で許容されるかどうか、ということなのである。
「男児」として認識されている場合、文字通り子供なので、良いこと・悪いことを大人から教わらなければならないし、大人は教えなければならないと考える。だから基本的にいたずらは「こらっ!」と叱り飛ばされるものである。もしくは母親との関係性次第では「こらっ!」にいたらず、苦笑いで終わることもあるかもしれない。
ところがそういった、良し悪しの学習過程が一応は終了している、人として一定の倫理観を共有できるレベルにあると判断された場合、「男児」は「大人の男」として、いたずらは信頼のもとに「もぉ〜。笑」で済ませてもらえるようになるのだ。
なんで「大人」でなく「大人の男」かというと、女児の場合はちょっとこうはいかないような気がするからだ。すべてを言わなくても分かるでしょ、という意味を含んだ「も〜。笑」がコミュニケーションの場に発動される背景には、非常に小さな、男女間における無意識の共犯意識が潜んでいるような気がする。気がするだけでまったく根拠はありません。
いずれにせよ、具体性のない、ニュアンスで訴えかけるセリフが、親である私を介してではなく息子本人に向けられたときに、ああこの子は「大人の男」とみなされたのだな、と思い、母は密かに胸を熱くするのである。
そして、こんなことを言うとわたしの友人達は「そんな目で見てたの!」と気持ち悪く思うかもしれませんが、そんなに気持ち悪くない人間のはずですのでどうか今後とも仲良くしてください。
【おしらせ】
その①
「手の中で膨らむ」の中の人にぶつける20の質問【ブロガーのWA ! 】NO.11 - みんな!ブロガーだよ!*
こちらで質問に解答しました!昔はやった「100の質問」に答えるような気分でとても楽しかった。よければご覧下さい。
その②
UXHackCamp第3弾 テーマ「夫婦の時間」 | Peatix
「アイデアとテクノロジーの力で冷えきった夫婦に潤いを取り戻せ!」と題した前代未聞アイデアソン。こちらの冒頭にて30分ほど、「なぜ夫婦は冷えきるのか」について大真面目にお話させていただくこととなりました。スライドなども用意して挑む予定ですのでぜひご参加ください。2月26日木曜日開催です。
その③
【いい時間】新春!日本酒×アイデアソン ほろ酔い気分で日本酒の未来を考えよう | Peatix
企画に携わっているイベント、日本酒×アイデアソンを、人気イベント連発で話題沸騰中の「いい時間」とのコラボで開催します。もちろん日本酒も飲めるしカレーまで食べられます。ぜひ遊びにきてください。こちらは2月27日金曜日開催です。
ところでこれは先日(…といっても気付けばもはや1ヶ月以上前じゃないか!!)焼いたパン。バーベキュー用の炭火が起こされていたので、網の上でカマンベールチーズを熱し、溶かしてパンにつけて食べました。
むけるバナナと本と映画
では年末年始に読んだ本と映画のまとめ
脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)
- 作者: 前野隆司
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2010/11/12
- メディア: 文庫
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2014年に聞いて衝撃を受けた「受動意識仮説」についての本。私たちは日常のあらゆる行動を意識によってコントロールしていると思っているけれど、その実、意識とは、行動が起きた後に視覚や聴覚からの情報をもとに構成されている幻想に過ぎない、と。
生物の中で人間を特別な存在たらしめていた「心」の正体が判明し、「将来は動物や虫にも人権が与えられる」とまで予言する筆者。私は長年、人間がいくら高度な知能を持っているって言ったって動物であってほ乳類である以上、どうして特別な存在となり得るのだろうと疑問だったので、ほらねやっぱり人間も特別じゃなかった、と、この本を読んで人知れず得意な気持ちになった。( どうでもいいこと)
データの見えざる手: ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則
- 作者: 矢野和男
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2014/07/17
- メディア: 単行本
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筆者らのチームが開発したウェアラブルセンサで沢山の人間の行動データを取得、解析した結果、人間は積極的に活動する人ほどハピネス高めということが判明したそう。また職場では、有能な人がシフトに入っていることより、休憩時間のスタッフ間の雑談が盛り上がることの方がより生産性を高める結果につながるそうだ。なぜなら活発度とそれに伴うハピネスの向上は人から人へと伝搬するから、と。。余談だが私が中学校の卒業文集で書いた作文のタイトルは「微笑みの神様」タイトルは黒歴史だが内容は笑顔は伝搬するというもので、ハピネスが伝搬するとか私に限らず大抵の人が知ってたと思う。でもそれが定量化されてセンサーで計測できるところがすごいのだ。中でも個人的にうならされたのは、質の良い会話がハピネスを産む、なぜなら良い会話の最中には知らず知らずに体が活発に動くから、というところ。他人へのねたみや悪口を延々と聞かされたとき、あるいは全然興味のない宗教の勧誘を受けているときの、首の周りがガチガチになるあの感じを思い出し深く納得した。
カイ君の家に行ったときにもらったおじいちゃんの本。右往左往、沢山の寄り道をしながら思い出した様に話が進む、田中りえさんのちくわのいいわけで触れたあの文体は、そうか、お父さんゆずりだったのか。舞台の上でめちゃくちゃやるところや下着泥棒で捕まるところなんか最高だったな。
実家の母がよそからもらってきていた本。情念の詰まった、どっしりとした一冊だった。一部の男性は自分の物語に沢山の女性を巻き込みたがるが、おとなしく巻き込まれた風を装っていた女性が時間差で内側から食い尽くしていく様子を見ているようだった。
本の中でご本人も仰っている通り、これだけ野心に素直で、向上心旺盛でありながら結婚されているというのがすごいことだ。サラリーマンというご主人の心を折ることなく上手くやっていくコツってなんだろう。後学の為にぜひとも知りたい。
発売と同時に買ったけど思い入れが強過ぎて2ヶ月も暖めてしまった26巻。物語が大きく動きましたね。ストーリーもさることながら空気まで切り取ったかのように美しい絵、今回も素晴らしかった。自分の中の俗っぽさを誰より強く認識して、修行僧の様にストイックに己と向き合う太一、私は応援している!!!
物語が進むにつれ私の中には二つの仮説が浮上。どっちかな〜どっちかな〜と思いながら観進めた結果、まさかの両方…?!っていう結末にびっくり。
一見全然面白くなさそうなのに検索したらとても評価が高いので疑いながら観たところ、確かに素敵なお話が次々に畳み掛けてきた。ただしエンディングでみんなが幸せになる中で1人だけ不幸な状況をのみ込まされている人がいるんだけど監督それについてどう考えているんだろう。まったく妻って損な役回りなんだな!
ところで冒頭の鏡餅ならぬ鏡パン、中身はあんパン。溶き卵をぬって艶やかに焼き上げました。
2015年、みなさまにとって良い1年となりますように。