家族の4分の3が下ネタ大好き

 
息子「学校の友達がパパのTwitterアカウントフォローしてるらしい」
私「えっ。変なこと言わないようにパパに釘を刺しておこうか?」
息子「うーん…ま、大丈夫。最近パパ落ち着いたし」
 
と息子は言うのだがパパはつい先日もTwitterFacebookとLINEのタイムラインでズルムケちんこと書いていたじゃないか!「パパがSNSに変なこと書いてる…」「何?」「ズルムケちんこ…」朝一番に戸惑った笑顔でそう私に告げてきたのはほかでもない息子だったじゃないか!
 
たしかに、ズルムケポスト後から今日にいたるまでの約2週間ほどはいたって穏やかに過ぎた。SNSでの発言は控えめ、めずらしく音信不通になることもなく、集合時間にも遅れなかったパパ。身なりも比較的清潔にしていた様子だった。この2週間だけ切り取れば、落ち着いたように見えないこともなかった。しかし言ってみればたったの2週間である。この短期間を「最近」とおおきく捉え、さらに「落ち着いた」と好意的に評価するのはあまりにも懐が広過ぎじゃないか。「本当に?本当にパパに釘を刺しておかなくていいの?まあ釘を刺したところで無駄だけど。またズルムケちんこって言う可能性高いよ?せめてそれだけはやめてって言う?」私はしつこく息子に食い下がったが、息子は、いいよいいよと、ただただにこやかに答えるばかりだった。
 
電話番号の下4桁に1919を選ぶようなパパを、曇りなきまなこで見定め、寛大に受け止める息子。大人によって庇護されるべき子供が、ときにこんな風に慈悲深く大人を許す。そんな様を目の当たりにすると、大人とは、親とは、なんと罪深い生き物だろうと、私は暗澹たる気持ちになるのだ。
 
 
 
ところでそんな息子が、「この曲学校で超流行ってる!俺も超はまってる!」と教えてくれた曲がこれだった。
 
 
パパへの寛大な理解、その根源となっていたのは大地のように慈悲深い、健気なこどもの愛情なんかではなく、ゲスな下ネタで友情を深め合う男同士の同胞意識であった。
曇りなきまなこで見定め切れていなかったのは、私。
 
 
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ところでこれは先日焼いたバターロール。
味は美味しかったのだが成形がいまいちうまくいかず、正直言って一部、亀頭のようになった。
 
 
#アホ男子母死亡かるた

#アホ男子母死亡かるた

  • 作者: #アホ男子母死亡かるた書籍化プロジェクト@ahodanshi88 編,まきりえこ
  • 出版社/メーカー: アスペクト
  • 発売日: 2014/05/27
  • メディア: 単行本
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 献本いただき拝読した本。おもしろかった。「靴から無限に砂が出る」が一番ぐっときた。叶うことなら、男子の靴vsサイババの手で無限に砂が出るのはどちらかという対決をしたかった。

 
 

もう怖くないママ友コミュニティ


私はお母さんコミュニティにおいて大体の場合最年少。
最年少キャラとしてコミュニティの中でうまくやっていくコツは、年下だからと遠慮せず、要所要所でふてぶてしく振る舞いながらも根底では年上ママを可愛いくてしょうがない、と思いつづけることだ。年下の女というのはただでさえ女の敵なので女性らしさをむき出しにしていては年上ママのガードは突破できない。まずは敵と見なされないよう、ちょっと男性的な視点から年上ママの女性としての可愛らしさに気付いてあげて、愛おしく思うこと。これがベースになければ話が始まらない。しかしそれだけではただ気持ち悪いか上から目線で横柄なやつで終わってしまう。だからたまに、ごめんなさい私だけ若くて、えへ!といった、相手が笑いながら突っ込めるようなふてぶてしい発言をする必要がある。というのもお母さんコミュニティの連帯感は多くの場合自虐ネタの共有によって強固になるのだが、年下キャラがそこに同じ打球で参戦しようとしても「いいじゃんまだまだ若いんだから」ですべて打ち返されてしまう。
「お正月あけたら6キロも太ってて。。」
「いいじゃんまだまだ若いんだから!」
「洗濯物が乾かなくて、今、生乾きのパンツ履いてて。。」
「いいじゃんまだまだ若いんだから!」
ちょっとこれはどうかと思うものの実際、大概のことがまだまだ若いのでなんとかなると思われている。
一般に自虐ネタというのは自分の敷居を下げて相手の侵入を許すために用いるものなので、それが通用しない以上、年下キャラは若さを逆手に取ってそれを要所要所で吹聴し、相手に気持ち良く突っ込ませることで敷居を下げて侵入を許す、私の経験上これが非常に効果的だ。

とはいえ、実際のところお母さんコミュニティというのは、上記のようなことを意識的にやって遮二無二しがみついていなければならないというようなこともないのだ。

学生の頃何が嫌だったって、1人でいると可哀想な人だなって目で見られること。決まった友人と常に一緒にいなきゃいけない、1人でお弁当食べちゃいけないという同調圧力が、思えばあらゆる苦悶の引き金だった。そんなんだから、学生を終えて、母親になって、公園デビュー、幼稚園デビューを控えた頃、さぞ面倒なんだろうなと恐々としていたのだけれど、蓋を開けてみると案外そんなこともなかったので拍子抜けした。公園でも幼稚園でも、子供がそのときその場で一緒に遊んでる子のお母さんと当たり障りのない会話をして、特に気が合いそうだなと思ったら仲良くする。お母さん同士の付き合いっておおむねそんな感じ。これが大人の距離感かと、ついこの間まで学生の世界にいた私は目からウロコだった。ランチに誘った誘われなかった、まあそんな小さなトラブルもあるところにはあるのかもしれないけれど、大体のことは自分さえ気にしなければそんなに支障はきたさない。終始べったりしている必要もないし、そもそも子供のための社交という前提があるのである面では自制心を働かせやすいのだ。だから、居心地が悪ければ居心地が良い程度の距離を保って付き合えばいい。少なくとも私の住む地域のお母さんコミュニティでは、学生時代に比べたらはるかにその自由があった。

でももしかしたら、必ずしもこうでない、ネットリしたお母さんコミュニティに苦悩している人もいるかもしれない。こういうのは大体、そのときそのコミュニティを構成する人々の意識によっていかようにもなるので、たとえば支配欲の強いお母さんが1人いて、その人の声が大きいと、それを望まない多くの人にも同じ距離を強要されてしまいかねない。一方で、そういうのが嫌な人、コミュニティに帰属することに苦手意識を持ってる人は、そのコミュニティの空気を自分が左右することなど到底出来ないと思いがちだ。。。でもね、案外そうでもないのかもしれないよ。コミュニティとは付かず離れずの距離感を保って、私には何の不安も不満もないです、という涼しい顔をし続けていれば、気が付けばあなたの価値観が周辺ではスタンダードになっている、なんていうことがあり得るかもしれない。何しろみんな考えるのが面倒くさいから、ちょっとくらい不満があっても改善しようとせずに誰かの真似をしているだけだ。そんな中で、不満なさそうに、気楽に人付き合いしてる人が現れたら、ゆるやかにでもきっと後に続く人がでてくる。


長男の友達のお母さんたちとは早いものでもう10年もの付き合いだけど、長い時間一緒に過ごしてきたので、今では家族のように大切な存在。お母さん同士の繋がりから得られるものは沢山あるし、どうせ長く付き合っていくなら、楽しく、面白おかしく、ストレスのないお付き合いをしたいものだ。



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ところでこれは昨日焼いたパン。
カンパーニュ1個分の記事を6等分してミニサイズに。いずれは中にあれを詰めて焼くのだ。

人と対等な関係を築けないのは幼少期にクラスで一番身長が高かったからという仮説

 
人と対等な関係を築くというのは本当に難しい。
 
敬うべき目上の人と可愛がるべき後輩、両者に対する振る舞いについてはこうあるべきという明確なイメージがあるのだけど、対等な友人、縦でなく真横にいる人と心地よい距離を保つというのがすごく苦手なのだ。
 
特に厄介なのが、自分も女性なのに自分以外の女性に対して守ってあげなければという気持ちがやたら強いところで、先日もバーで知り合って何気なく話していた女性に「なんで同い年くらいなのにお母さん目線?ww」と突っ込まれてアイタターと思った。
 
すべての原因は、同級生の中でも特別早く母になったせいだろうと思ってきたのだけど、最近あらためて思い返してみると、実は子供を産むはるか前から同じ課題を抱えていた。小学生の頃から漠然と、みんなと同じになりたい、と思い続けていたのだ。これってつまり、立場的には完全に対等な同い年のクラスメイトの中にあって、誰にも等身大の自分を投影できていなかったということだ。
 
じゃあ、なんで私はみんなと同じじゃなかったのかと考えると原因は一つしかない。身長だ。
私は小学3年生の頃には身長が150cm以上あってクラスで一番大きかった。しかし4年生で初潮が来て身長は伸び止まり、それ以降は5cm程度しか伸びなかった。だから今、大人としては背が低い方なのだが、私の心持ちのベースは全て、クラスメイトを見下ろしていた幼少期にあるように思えてならない。何しろ体と心は一体。心で拒んでも体が正直なのはいやらしい小説の中でだけだ。身体的には同級生を見下ろしながらも精神的には相手に見下ろされる、あるいは、身体的に自分を見上げてくる相手に可愛いなあよしよしと思われる。そういったこともあり得ないことはない。あり得ないことはないが、何か不自然じゃないだろうかと自分が自分に絶えず問いかけてくるのである。心と体が一致していないと、何となく落ち着かないのである。だから、体に見合った自然な振る舞いをするように心がける。その結果、同級生を、精神的にも一段階上から眺める自分が登場する。
 
三つ子の魂百までではないけれども、幼少期にそうやって自分の目線の向きを常に意識していたから、いまだにその呪縛から抜け出せない。人間みな平等、上も下もない、そんなことは分かってるんですがつい同い年くらいの女の子は守らねばという気になるし、そんなのもうやめようと思って対等な振舞いを心掛けたとしてもほんとにできているのか気になって気になってしょうがない。だから、そんなこと気にしなくていいところ、上か、下に対峙する相手がいてくれるほうが助かるのだ。
 
で、不思議なことに、大人になってからものすごく意気投合して仲良くなった女友達の多くは、私と同じように幼少期に身長が飛び抜けて高く、早い段階で生理がきて成長がきて止まった、という同じ経験をしているのである。相手のポジショニングに敏感で、本当はそれを気にしたくなくて、でも無意識に気にしてしまう悲しい性分を抱えて生きている元巨人達が、時を越えて言葉もなく惹かれ合うのである。根深い。
 
こういうこと考えてると、

子供を褒めて評価するのは良くないらしい - 手の中で膨らむ

この記事の中で紹介したアドラーの言う横の関係なんてのも、難しいけれどやってればいつか体得できるものでなく、やっぱそもそも無理ゲーなんじゃないかという気になる。人それぞれ体のサイズが違うのだから相手が受ける印象や本人から見える世界も違う。体を脱ぎ捨てて精神だけで対話できないのだから、誰に大しても対等に、横の関係を保つなんて途方もない話しだ。理屈としてそうできればそれにこしたことはないだろうから、恐らく位置づけとしては神社で売ってる交通安全のステッカーを車に貼る程度に、たまに思い出して祈念する、くらいで良いのかもしれないな。

 
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ところでこれは先日買った皿と、皿に乗せたサラダ。今日はまだパンを焼いていないので代わりに皿をご紹介したい。
GWに九州に帰省した際、佐賀県で開催された有田陶器市に行ってきたのだが、そこで出会った徳太郎窯というところの皿だ。徳太郎さんが焼いている。大変気に入っている。

徳太郎さんこれからも頑張ってください!

地域のお祭りはいけてるしやばいしSo cool

地域のお祭りに参加した。

毎年楽しみにしているお祭り。中学校のグラウンドにテントが立ち、周辺の学校や施設が出店する。特設ステージではおばあちゃんがフラダンスを踊ったり、おじさんがバイオリンの生演奏にあわせてタップダンスを踊ったり、子供達がチアダンスを踊ったりする。青空の下、人間愛の塊みたいなショーを眺めながら近所の人たちと学校でビールが飲めるから、このお祭りは最高なのだ。

しかし今年は例年のようにのんびりというわけにもいかなかった。何しろ学校のPTAとして裏方のお手伝いをしなければならなかったからだ。

私の仕事は、グラウンドでお父さんたちがついた柔らかいお餅を、家庭科室で千切って、丸めて、きな粉や餡子を絡めて売り場のテントまで運ぶこと。自分の子はとっくに成人して孫もいるような近隣のおばあちゃん達が、小学校の子供達のためにと、ボランティアでこの場を仕切ってくれている。さぞ和気藹々かと思いきや案外そうでもない。おばあちゃん達がそれぞれ培ってきた効率的なやり方が違うので、しばしば意見がぶつかるのだ。餅のサイズ、餡子の量。ええ、そんなに?ええ、そうするの?こうしてね、とリーダー的な役割の人から指示を受けても、おばあちゃん達は決して安易に迎合しない。ときに口を曲げてむっとした顔をしながら、あのひと全然分かってないんだから、なんてぼそっと憎まれ口をたたく。しかし、そのあとすぐに、てへっ、みたいな可愛い笑顔を一瞬見せると、また何事もなかったかのように全然ちがう世間話を始める。

グラウンドから、風に乗ってバイオリンの音色が聞こえてくると、今年も始まったな、と思う。最早ステージを見なくとも、タップのおじさんの華麗なステップが脳内再生される。あのおじさんすごくタフで、15分くらい笑顔で踊り続けるんだ。

フラダンス、和太鼓。
あの人たち今年も元気でよかった。

ジャパネット高田みたいな軽妙な喋りでオーディエンスを湧かせる名物司会者。

大抽選会で一喜一憂する子供と、子供のような大人たち。

なんでもない町の人たちの健やかなグルーブ。

地域のお祭りは最高にいい気持ち。



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ところでこれは今日焼いたウィンナーパン。初めて美味しい糖質制限パンができた。あまりにも失敗続きなので本を買ったのだが、これが功を奏した。
噛めば噛むほど木綿豆腐の味がする。

大豆粉でつくる、糖質オフでもこんなにおいしいパンとお菓子

大豆粉でつくる、糖質オフでもこんなにおいしいパンとお菓子



SNSがなくても愛妻家アピールを効果的に使っていた柿本人麻呂

 男性がSNSで愛妻家、良いパパアピールをしたがる件については、行為そのものがどれほど打算的であろうと結果として誰を嫌な気持ちにするわけでもないので基本的に当方は支持という姿勢をとっております。

夫婦あるいは家族というのは、それぞれを大切に思い合っていればこそ不安になったり、苛立ったり、確かめたくなったりするものなので、何ということがなくともとりあえず自分は家族に帰属していると世間に主張することで、大切な誰かの不安の芽を摘むことができる(かもしれない)としたら、それを望んでとる行動に罪はないというもの。

 

ところで現在、百人一首を暗記中の我が家。今日はひとつ、こんな歌をご紹介したい。

 

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

 (柿本人麻呂

 

【意味】

山鳥の長く垂れ下がっている尾のように長い長い夜を愛するひとと離ればなれになって、ひとり寂しく寝るのだろうなぁ。

【干渉】

人麻呂は、とても愛妻家だったそうです。この和歌は、現代の出張のような仕事で、家を離れなければならないときに詠んだものと考えられています。仕事先へ向かいながら、「あぁ、今日は奥さんと一緒に寝られないんだなぁ。寂しいなぁ。」と考えていたときの気持ちが和歌になったのでしょうか。あなたのお父さんもこんなことを考えながら、出張に出掛けてるかも知れませんね。お父さんが帰ってきたら、お母さんに会えて嬉しそうにしていませんか?お父さんが出張に出掛けたら、この和歌を思い出してみてくださいね。

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)|子供と愉しむ百人一首:百人一首の意味を知ろうより引用

 

 

柿本人麻呂が出張中にこの歌を詠んだ、その目的と効果に思いを馳せたとき、SNSなんてなかった時代の先人と現代を生きる男性達が、時を越えて分かり合える可能性をひしひしと感じませんか。

出張中こんなに寂しかったよ、とりあえずそう言われれば嘘か本当か分からなくても妻は悪い気はしないし平和を維持できる。しかしこの歌の最大のあざとさは対象を決して妻に限定しておらず、きわめて汎用性が高いという点にあります。私の経験から察するに出張から帰れば妻に、また出張先では現地妻に、きみのことだよと吹聴して回った可能性が大いに考えられ、かなりしたたかな男と見て間違いない。

現代のような通信手段がなくともここまでのことが出来るわけだから、我々のSNS上でのあらゆる打算的な取り組みにも、更に改善の余地があるのだろうと、まだまだ甘かったな、と思わされる。先人に学べとはよく言ったものです。

 

女と男の万葉集

女と男の万葉集

 

 

 

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ところでこれは今日焼いた糖質制限パン(失敗) 。ふすまや大豆粉、グルテンパウダー、ラカルトSなどを使って焼く糖質制限パン。実はもう過去に3回試したものの一度も成功していない。全然膨らまない。落胆から、撮影にも愛をもって挑むことが出来ず写真も投げやり。しかしこの失敗を引きずることなく、気持ちを入れ替えて次回こそうまく焼きたい。

 

男の子なら誰もが喜ぶ食べ物その名も「ちんびん」


今日は我が家の洗濯機について衝撃の事実が判明した。
半年近く、柔軟剤を注入し続けていた場所とは別のところに、柔軟剤注入口、とくっきり表記してあったのだ。どうしてだろう、今までまったく気がつかなかった。もっといえば、結果として柔軟剤注入口ではなかったが私が柔軟剤を入れ続けていた謎の注入口に柔軟剤を入れるようになるさらに前の、約1週間あまり、私が柔軟剤を入れていたのは洗濯機の蓋のロックを受ける穴だった。

友人からただでもらった洗濯機なので説明書があったわけでもなく、当初から探り探りで使っていたのでやむを得ない。これまで入れていた柔軟剤はどのタイミングでどう流れていたのだろう、不思議なこともあるものだ。

それにしても、こういう地味な間違いを犯しても、まあそういうものだという気持ちでいられるようになって本当に良かった。これが大人になるということだ。
子供の頃の私は、たとえば塩をこぼすとかいった地味な失敗をするたびに、心の中になぜかいつもいたお笑い芸人、田村淳さんの幻影に「ダッセェwww塩こぼしてんのかよwww」と笑われ続け、どんよりとした気持ちになっていたものだ。どこを切り取ってもイケイケな人に、イケてない日常を常に監視され、シニカルに実況され続けるのはとてもつらく苦しい。言い訳をしたり、苦笑いでごまかしたり(もちろん心の中で)すればするほどイケてなさに拍車がかかるようで、日増しに私の言動はぎこちなくなっていった。自分にもっと注目してほしい、でも誰にも見られたくない。両方いつも同時に湧き上がるのでうまく処理できるようになるには時間が必要だ。しかし、あきらめずに試行錯誤を続けていれば、いつかはそこそこうまく操縦できるようになるので、子供たちは安心していい。子供たちがこのブログを読んでくれているかどうかは分からないが、私は子供たちにそのことを伝えたい。

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ところでこれはパンではない。ちんびん、という沖縄のお菓子だ。友達が粉をくれたので見よう見まねで焼き、勧められた通りにあんこを巻いてみた。どら焼きのような味でとってもおいしい。
思春期の男子達に振舞ったところ「ちんびん」という名前が大人気だった。
さすが思春期。

百人一首が我が家でブーム

 

ちはやふる(1)

 

漫画『ちはやふる』をきっかけに我が家にも空前の百人一首かるたブーム到来。iphone用の無料アプリをいくつもインストールして目下暗記に励んでいる。

ロマンチストの娘は意味と併せて覚えている。

秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の 影のさやけさ

これなんかうっとりしながらすぐに覚えたものの

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

これについては「詠んだの絶対主婦だね」と断言して割と生活感漂うイメージで見ている。気持ちも分かるが実際は天皇の詠んだ歌だ。


競技としての百人一首かるた、ちょっと興味を持って調べてみるとすごく面白い。ルールはこんな感じ。

競技する2人は、まず百人一首の100枚の札を裏向けにしてよく混ぜます。裏向けにするのは自分の好きな、あるいは得意な札を選んだりしないためです。

互いに25枚ずつ取り、自分の陣地(自陣)に左右87cm以内に3段に分けて並べます。相手の陣地(敵陣)にも同様に並べられた状態となりますが、残りの50枚は箱にしまって競技には使用しません。しかし、読み手は100枚の札を読むので、使わない札は空札(からふだ)となります。

自陣の札を取ったら一枚減り、敵陣の札を取ったら相手に札を一枚送って自陣の札を一枚減らします。 

こうして、自陣の札を早くゼロにした方が勝ちとなります。 

競技かるたをしれば | ちはやふる より引用)

 

試合開始前に15分間暗記の時間が与えられ、選手はその間に自陣、敵陣の計50枚の配列をすべて暗記する。近頃3けたの数字の暗記すらあやしい私にはすでに途方もない話しなのだが、大会では1日に何試合もこなすので、選手たちは試合のたびに配列を覚えて、試合が終わると忘れて、次の試合でまた覚えて、また忘れて、を繰り返すそう。一体この人たちどうなってるんだろうと興味をもって、現在競技かるたで10年連続日本一、クイーンの座を守り続けている楠木早紀さんという方の本を読んでみた。

 

瞬間の記憶力 (PHP新書)

瞬間の記憶力 (PHP新書)

 

 タイトルはずばり『瞬間の記憶力』。

結論から言うとクイーンの瞬間の記憶力は「巨人の星」さながらの血の滲むような努力によって得られていて、明日から使える記憶力を楽に高める裏技なんてないんだということがよく分かった。そういう目的でこの本を読む人はきっとがっかりするけれど、1つの競技で日本一の座を10年守り続ける超人の頭の中がどんな風になってるのか、すごい人を覗きみたい好奇心は十分満たしてくれる本だった。以下本より引用。

 

初心者の頃の私は暗記時間をめいっぱい使って必死で札の位置を覚えていましたが、今では五分もあればすべて覚えられます。単純計算すると一枚につき六秒。(p35)

試合中に札を見渡しているとき、次に詠まれる札が光り輝いて見えることが私にはあります。

たとえば、次に詠まれる歌が「秋の田の」だとすると、その歌が詠まれる前の空白の一秒で、「わかころもては つゆにぬれつつ」と書かれた取り札が、ピカッと輝くのです。

 たぶん、読手が空白の一秒で息を吸い込むときの吸い方で、次の音が直感でわかるのだと思います。(p85-86)

クイーン戦で序歌が詠まれているとき、私は航海をイメージしています。(中略)流れが相手にいって、劣勢に立たされることもあります。

それを航海にあわせてイメージし、自分の心をコントロールしているのです。 

嵐に襲われているさなかは、「耐えろ、耐えろ」と自分に言い聞かせ、嵐がおさまったとき、いつでもスタートを切れる態勢を整えておく。そして、穏やかな海をずっとつかみきれるように、船をコントロールしなければいけない。(p131)

在位期間が長くなればなるほど、クイーンに向けられる視線は、「頑張れ!」という応援から、「いつ負けるのか」という見方に変わってしまいます。そのつらさは、本人と家族にしか分からないーー。(p198)

 

勝負事というのは結局のところ自分との戦いだと楠木クイーン。積み重ねられた努力と実績、それに裏打ちされた揺るぎない自信。誇り高き女王の姿に感服した。

 

 

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ところでこれは先日焼いたフランスパン。自分とぬるく戦っているせいか前回よりもよく焼けた。中途半端に先を尖らせてみたけどこれは別に必要なかったかなという気もしないでもない。